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TOP特集一覧沖縄 暮らしのでざいん研究会 > 沖縄を“知る”野外ワーク【第1回首里城〜玉陵】 
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2カ月に1度、沖縄のいろんなところを訪ね、ガイドさんと一緒に見たり聞いたりしています。
ここではその様子をご紹介します 。 →開催ご案内

<守礼之門>
過去には「日本3大残念なスポット」の一つとも言われていました。首里城が復元され整備が進んだことで、風格を取り戻しました。

「沖縄を“知る”野外ワーク」の第1季(シーズン)は世界遺産編として、世界遺産に指定されているグスクを中心にめぐります。目的は観光ではなく、“知る”こと。世界遺産を中心に沖縄県内をガイドする伊芸健さん(エミューツアープランニング)と、その場所の歴史や人にまつわるいろいろなことを見て聞いて、自分たちの足元を探る手がかりにしていきます。

第1回目は首里城と、第二尚氏王統の陵墓である玉陵(たまうどぅん)を訪ねました。

琉球王国の幾多の興亡を伝える歴史の証人である首里城。琉球の島々を治め、中国、日本、朝鮮、東南アジアの国々と外交、貿易を展開した首里王府の司令塔として、そして王とその家族たちが住む住居でもあった首里城は、華麗な王朝文化に彩られた城です。

玉陵は第二尚氏王統・第三代王・尚真が父・尚円を葬るために建築したものです。

 

沖縄のグスクはすべて築城年代が不明と言われています。
首里城は、14世紀に中山王察度が浦添城から移ってきたという説と、15世紀初め(1406年)に尚巴志が浦添城の中山王武寧を滅ぼした後に築いたとする説があるそう。尚巴志は首里城と浦添城、どちらを攻めたのでしょう?

下図は首里城全体の配置図です。ピンク色の実線で囲まれている部分は現在復元作業中の場所で、未開園区域となっています。の部分は、今回私たちが見学した際に解説ポイントになった場所です。


「国営沖縄記念公園首里城地区整備計画」より参照

守礼之門は首里城の入口。よく見ると5つの通路になっています。身分によって通れる通路が違っていたといわれているそうです。ちなみに中央が王族方、両端がお役人方、そのまた端が庶民…とか。

門をくぐって、首里城へ進みます。

最初の解説ポイントは「園比屋武御嶽」です。

石門の背後にある森が園比屋武御嶽です。
この御嶽は、国王が各地を巡航する旅に出る際に必ず拝礼した場所で、また聞得大君が就任するときに最初に拝礼した、国家の聖地でした。王家・尚氏ゆかりの島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し、祭っています。
もともとは今より広範な森だったそうですが、現在残されているのはその一部です。

首里城歓会門と守礼門との間にある園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)が礼拝所です。
石門は、1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真のときに造られました。八重山のオヤケアカハチの乱(1500年)で、王府軍が八重山へ出兵した際に、大里按司に見込まれ首里に連れてこられた石工・西塘(にしとう)によって造られました。

西塘は、非凡な能力を発揮して三司官に仕えながら、園比屋武御嶽石門をつくったり、首里城の設計にも関わりました。1524年に竹富大首里大屋子として八重山統括を任された人物でした。

石門は、1933年(昭和8)に国宝に指定されました。
しかし 、1945年(昭和20)の沖縄戦でほとんど壊されました。1957年(昭和32)に古材を別途保管の上、新しい建材を用いて復元され、1972年(昭和47)、日本復帰とともに重要文化財となりました。
その後、地盤の変化によって弛緩や傾斜があらわれたため、再度解体され、保管してあった古材のうち利用可能なものを使って、建立時に近いものに仕上げられたのだそうです。
現在の石門を注意深く見てみると、色や摩耗の度合いが異なる部分があり、古材の部分がわかります。

園比屋武御嶽石門は、木製の門扉を除いてすべて石造りで、中央は単層平入りの唐門、左右が切石積みの石垣になっています。
門の屋根は、唐破風(からはふ)の板葺き形式で、軒回りに垂木(たるき)、屋根の両端に鴟尾(しび)が飾られています。棟の中央には、火焔宝珠(かえんほうじゅ)を乗せるなど木造建築の特徴が表現されています。

この独特な石門には、離れて見ると錯覚を起こす遠近法の技法が用いられているそうで、設計図面のままに復元を試みると、石の端の部分で予想しない寸法誤差が生じて、関係者を手こずらせたそうです。


守礼之門は身分によって通れる通路が違っていたといわれています
<園比屋武御嶽石門>
上部に鴟尾(しび)と火炎宝珠があります
よく見ると色と磨耗の度合いの違いがわかります。旧石門の残った部分を利用していることがわかります。
ツアーガイド・伊礼さんの話を熱心に聞く参加者のみなさん。
 
園比屋武御嶽石門は1999年に国の重要文化財に指定され、2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

歓会門をくぐり、瑞泉門前へ。

瑞泉門の手前には「龍樋」があります。
“瑞泉”とは、おいしい水のことをいい、瑞泉門に登る石段の途中、向かって右側に位置している清泉に湧き出る水のことをさしています。

この水は冊封使が訪れた際に、宿泊先である那覇港の近くの天使館まで毎日運ばれたほどの銘水で、この泉に石彫りの龍形をした吐水口がとりつけられていることから、「龍樋」と名付けられているそうです。

この龍樋の奥には、大人が這って入れるほどの大きさのトンネルが水源まで約30メートルも続いているそうです。今でも清水が湧き出ている龍樋の前では、その銘水を称えるために贈られた石碑の紹介もありました。

石碑は中国皇帝の使者である冊封使が、龍樋を“中山(琉球)第一の甘露”とたたえて、「中山第一」と石碑に刻んだものです。
周辺にはこうした冊封使の筆跡を刻んだ石碑が全部で7基あり、これらも沖縄戦ですべて破壊されました。現在の石碑は、拓本を元に復元されたものです。

7つの石碑には、「中山(琉球)第一のおいしい水」、「山の高所に湧く仙人の水」、「東の果ての日出る地の霊水」、「魚が水上にはねるが如く、勢いの盛んな湧水の地」、「源は遠く流れは永久に」、「玉が飛び散るように吹き出る泉」、「不思議な水脈、とろけるような香気」といった意味の漢文が刻まれています。どれも湧き出る水の美しさや美味しさ、豊かさを称える言葉です。

左上に見えるのが瑞泉門
<龍樋>
今でも美しい水を湛えています。現在は飲用禁止。
日影台からの眺め。手前が久慶門、左上が歓会門。
<万国津梁の鐘と供屋>
この鐘はどこで造られたのでしょう?中国?琉球?

瑞泉門から時刻をはかる場所だった漏刻門を抜けて日影台へ。曲線を描く石垣、深い緑色の木々が美しい景色です。こう見ると、遠くに見えるコンクリートの白っぽい景色に違和感も感じてしまいますねぇ。

日影台のそばに万国津梁の鐘を納めた供屋(ともや)があります。
万国津梁の鐘は、1458年に鋳造され首里城正殿の前にかけられていた銅鐘です。
「万国津梁」とは「世界の架け橋」という意味です。鐘には「琉球王国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国と日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」という趣旨の銘文が刻まれています。
往時の海洋王国としての誇らしい心意気が示されています。

展示されている鐘は、沖縄県立博物館所蔵の実物をもとに鋳造当時の状態に複製したもの。
供屋という施設については、どのように使われていたのかはわかっていないそうです。

 

別名「中御門(ナガウジョウ)」と呼ばれていた広福門は、現在は券売所とトイレとして利用されています。
広福とは「鎮まる」の名詞で、「鎮まる」には「長い」という意味もあることから、「中山は治世よく永しえ(とこしえ)に」との願いをこめてつけられたと考えられているそうです。

木造平屋建・入母屋造・本瓦葺の首里城内郭第二の門で、役所としての機能があり、東側が士族以上の家の戸籍や財産をめぐる争い事を調停する「大与座(おおくみざ)」、西側は神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」がありました。
明治の末、第一尋常小学校の建設のために取り壊されましたが、数枚の古い写真や発掘調査で出土した礎石を基に復元されました。

広福門で早速チケットを買って中へーと思いきや、奉神門をくぐるのはまだまだ。
チケット売り場正面にある首里森御嶽で手を合わせて、西のアザナ、京の内へ。

アザナとは物見(遠くを見渡すところ、見張り)のことで、東西に長い首里城の敷地の両端に、東のアザナと西の(イリヌ)アザナがあります。
西のアザナは木曳門の南側にあり、眼下には那覇市街が広がり、晴れた日には慶良間諸島まで一望できます。
西のアザナと東のアザナ、右掖門では、漏刻門の時を報せる太鼓と合わせて、同時に鐘を打って城下に時を報せていました。明治12年の琉球処分まで続いていました。

かつては外国から到着する船の様子や那覇のまちの様子が首里城から一望できたそうです。庭園都市と呼ばれていた那覇のまち、首里のまちはどんなに美しかったことでしょう。想像をめぐらします。緑の中の赤瓦屋根がやはり美しく思えます。

<西のアザナ>
那覇を一望できます。
鐘を打って城下に時を報せる場所でもありました。
 

奉神門の手前、券売所や首里森御嶽がある部分を「下之御庭」といいます。その南西部の丘陵部を「京の内」といい、首里城内郭の20%ほどの広さがあります。

12世紀のグスク時代の幕開けから14世紀の三山時代にかけて、ここに古グスクが創建されたとされる首里城発祥の地で、古くから王朝祭祀が執り行われていました。

もともとは「けおのうち」といい、「けお(けう、けよ)」は「せぢ」等と同じく霊力を意味する言葉です。その名のとおり首里城内の最高の聖地とされています。首里城内には十の御嶽があったといわれ、その「十嶽」と称される御嶽のうち、四嶽または五嶽が京の内にあったと推定されています。

古くは「高よそうり殿」をはじめ、いくつかの殿舎が建っていましたが、第一尚氏、第二尚氏による首里城整備の中で次第に縮小され、郭の東、西、北の三面に石造アーチ門が設けられ、南城壁沿いに京の内三嶽が並列する神聖な祭祀空間の色合いが濃くなったそうです。

観光客でにぎわう場所になった首里城の中でも、とても静かなこの場所は、ほかとは違った空気が流れているような印象で、まさに神聖なスピリチュアルスポットといったところ。聞得大君を中心にどんな祭祀が行われていたのか、空気が面影を伝えているようでした。

 
<正殿と御庭>
しばらくの間、漆塗りの作業中です。
<玉座>

京の内を抜け、いよいよ正殿へ。
奉神門をくぐり御庭から正殿を眺めます。ちょうど外壁の漆塗り直し作業中で、半分は足場がかかった状態でした。これが終わると、龍頭棟飾りの修復作業が行われるようです。

首里城正殿は琉球王国最大の木造建築物で、「国殿」または「百浦添」と呼ばれ、琉球のすべての浦々を支配する象徴として最も重要な建物でした。

北京の紫禁城内にある太和殿に似せて造られたといわれますが、細部の意匠に日本建築の禅宗様式を取り入れたり、風土や人々の嗜好にあった工夫をこらして、全体的には琉球独自の雰囲気を創りだしています。

2層3階(外から見ると2層、内部は3階)になっていることや、装飾化した龍柱は日本や中国にも類例がなく、琉球独自の形式だそうです。

1階は国王や重臣たちが重要な儀式や政治を行う「表」舞台。2階は王家の行催事が行われたプライベートな「奥」の世界。1つの建物の中で「表」と「奥」が混在しながら、壁や階段で仕切られています。

正殿2階と王妃の寝室がある黄金御殿は渡り廊下で結ばれ、王は2階から直接御内原へ出入りし、日常生活を過ごしていました。

正殿は沖縄戦を含めて過去4回の焼失再建を繰り返していますが、現在の復元された形は1712年から戦前まで存続した第4期の建物を基準にしています。

さて問題です。首里城正殿では龍が印象的ですが、はたして何匹の龍がいるでしょう?
興味のある方は数えてみて下さいね。

正殿を外から眺め、南殿から中へ。琉球王国や王たちにまつわるさまざまなことを見聞きしながら進みます。
復元作業が進んでいる首里城は、久しぶりに行ってみると見学できる場所が増えていて、新たな発見も。
黄金御殿、御内原、謎の多い首里城の全貌が見られる日が待ち遠しいですね。

1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍(熊本鎮台沖縄分遣隊)の兵所となり、その後学校が建てられました。学校の移転後に、正殿その他いくつかの城門が国宝に指定されました。その際、正殿は「沖縄神社拝殿」という名称で指定されたそうです。
沖縄戦では、地下に陸軍の司令部が置かれたため、激しい地上戦と「鉄の暴風」と呼ばれる艦砲射撃によって完全に破壊されました。
戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなりましたが、大学移転後に復元事業が進み現在にいたっています。

現在見られる首里城は復元されたものがほとんどですが、一部に古い部分が残っています。
それがこの石垣。プレートの下部分が遺構で、上部分が復元された部分。
何度消滅してもよみがえる首里城。古い石垣から何を思うでしょうか。

ここまでで首里城ガイドツアーは中盤。
正殿の内部をじっくり聞きながら、気がつくとスタートから2時間半が過ぎていました。
「首里城をじっくり案内すると5時間超かかりますよ」とツアーガイドの伊芸さん。
もっと聞きたい!という首里城です。ザーッと急いで回って2時間半。
近いうち、首里城ロングバージョンも実施予定です。

<首里城の石垣>
プレートから下部分が遺構です。

首里城を後にして玉陵(たまうどぅん)へ向かいます。

玉陵は、第二尚氏(だいにしょうし)王統歴代の陵墓。
第三代王・尚真(しょうしん)が、1501年(尚真25年)9月に父・尚円(しょうえん)が密葬された見上森(みあげもり)から、その遺骨を移すためにつくったと言われています。その後、代々王族の人々が葬られましたが、沖縄戦によって破壊されました。修復が行われ、1972(昭和47)年の沖縄本土復帰とともに国指定重要文化財、国指定史跡になりました。

玉陵の第一の門をくぐったところの左隅に、この墓陵がつくられた時に建てられた碑文があります。これは、玉陵に葬られる王族関係者の一覧とも言うべき内容を刻んだもので、9人の人物が掲げられています。

尚真王、尚真の母・オギヤカ、尚真の妹・オトチトノモイカネ、尚真の娘・マナベダル、尚真の五男・尚清、同じく三男・尚韶威、四男・尚龍徳、六男・尚享仁、七男・尚源道の名が見られます。

碑文はまた、名を刻まれた9人の人物の子孫たちは、同じく玉陵に葬られなければならず、この碑文の内容に従わない者は、天罰をこうむるであろうという意味の言葉でしめくくられています。

<玉陵・中室と西室>
<玉陵・東室>

しかし、第二尚氏王統歴代王のすべてが葬られているのではなく、第二代王・尚宣威、尚宣威の娘で尚真の王妃・居仁、尚真と居仁の息子・尚維衡が葬られていません。これには、尚真の母・オギヤカの力が働いたのでは?といわれているようですが、本当のところはわかりません。

墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋で創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られたそうです。
沖縄戦で大きな被害を受けましたが、3年余りの歳月をかけて修復工事が行われ往時の姿を取り戻して今日に至っています。

喧騒とは無縁とも思える静謐な空間は現世と後世をつなぐ空間のようにも思えました。

首里城〜玉陵、琉球王国の王たちの暮らしを思い描きながら、すべてを消失させてしまった戦争へ残念な思いが深まる時間でした。  
(2010年6月26日開催  沖縄暮らしのでざいん研究会)

<第2回中城城跡へ続く>

 
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