沖縄の現代建築の出発点は、戦後の焦土と化したゼロの状態の中からだと考えてよいだろう。
ただでさえ資源の乏しい沖縄に米軍による「鉄の暴風」が去った後に残されたものといえば、赤土と石ころだらけの山野であった。
米軍の野戦用のテント小屋での生活が始まったが、沖縄のきびしく苛酷な自然は、テント建築を認めることをしなかった。
島の人たちが英知を結集し、その中から生まれた建築は、石と土と雑木や雑草、周辺に自生する竹など、身近な建築資材で原初的伝統の民家「茅葺きの掘立長屋」を建築してみせたのである。
人間は極限の状態におかれたとき、伝統の様式に目をむけるのである。そして、米軍からの資材支給によるツー・バイ・フォー工法による組立規格住宅、木造瓦葺きの住宅へと変化してきた。
特に学校建築は、建築資材の乏しい中で、その建築工法は特異なものであった。故仲座久雄氏(沖縄建築士会初代会長)の計画によるものだが、両妻に石積みの壁、棟木はプレキャスト、コンクリートの巨大な大梁を架け、在来の赤瓦(本瓦葺き)の建築であった。この特異な建築は仲座氏の鬼才が生んだ建築だとわれわれは考えていた。
ところがこの建築様式は、沖縄の深い深い伝統に裏打ちされた、時代の要求に応えた、仲座氏の力量が遺憾なく発揮された作品だったのである。
仲座氏は校舎建築や、その他の建築にも石積みの作品を残している。このように石積みの伝統を更に一歩を進めた現代建築作品を残した沖縄建築界の大先輩である建築家、仲座久雄氏であったことを記しておきたい。
公共建築は、常にその時代の建築様式に影響を与えるものだが、仲座氏の作品は民家建築にその後も影響を与え続けてきた。
そして、朝鮮戦争が始まると米軍の基地拡張、米人住宅建設によって沖縄に初めてコンクリート・ブロックが招聘された。
米人住宅への住民の憧れ、度重なる台風の脅威から逃れたいとう願望する島民にとって、コンクリート・ブロックの建築様式は、また、たまらない魅力のある建築材料であった。
同時に沖縄で組積工法がなんの抵抗もなく受け入れられたのは、本土の木造文化に対して沖縄の文化の特異性を示す石造文化(組積造)を伝統としていたからである。
しかし、沖縄の人は決して石の家「ishiya-」は造らなかった。
石は建築材料として使われても、壁、柱としてしか使われない。石の家は、沖縄の人たちにとって「死者の家」であったり、墓の代名詞である。だから、ブロック建築が建ち始めた頃、生きていて石の家に入るものかと、怒った老人たちの話があちこちで聞かれた。
沖縄の人たちが、優れた石造文化を持ちながらヨーロッパの石造建築の模倣をしなかったのは何故か…。
『石は自然の脅威に対して堅固に人間を守るが、同時に石造りの建物の内部では明確に人間を拒否している。ヨーロッパの老人たちに見られる特有のリューマチや骨の病気は石造りの建物の中での、生の緩慢な壊死の現象である』 |