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TOP沖縄・建築家たちの言説> 【沖縄の原風景との対話 建築家金城信吉の世界】
   

旅をするのが好きで、日帰りの短い旅、何週間も続く旅もよくする。
日曜日なども家でじっとしていることができないから、民家調査とか称して適当な口実をつけては、カメラを持って出る。
事務所で製図板に向かってスケッチなどをして、建築計画だ、デザインだと考えこんでいるのも性分に合わない。
とにかく居場所を定めて尻のぬくもりを感じるのは、テレビを見ているときと、酒を楽しんでいるときぐらいのものである。うんざりするような電話のベルから逃げ出したいときには離島に旅する。
本土や国外になると勝手な口実をつけて旅することもできないが、年に一度は決って島を離れている。旅の土産に各地の建築写真やスライド会などして職員たちには見せるのだが、それもどうやら、適当にその場を繕っているに過ぎないようである。

旅先で美しいなーと感心して見ているのは、建築ではなく、その土地の女性の美しさである。
「他人の庭に咲く花は美しい」と言うが、女性や、他人様の花の美しさを羨むのは、ある意味で無責任な旅人の、ものの見かたや感じ方であるとも言える。

旅先でものを深く見ることは容易なことではない。十数年前になるが、陶芸家、故浜田庄司氏からこんなことを聞いたことがある。

『見て何かを感心するのは特に若い時には結構、有無を言わさずに真似でもしたくなることも結構、しかし、もう少し落ち着いて、どうして、どういうふうに自分に響くのか…、たとえば、地上には樹木の形と花のように咲いたものがあるけれども、実際は、その地下に根があって、見えないところの根が自分を呼んでいるんだと…、そこまで落着いて見直す。枝や花で勝負するより、根で勝負してほしい。
また、花の結実を実を結んだ時と思わず、その実が地へ沈んで来春、芽を出した時を答えとして受け取ることだ』。

離島の風景
離島で撮影された写真
浜田庄司氏も沖縄を愛し続けた人だったが、沖縄固有の芸術、文化を深く見つめ、沖縄の心を愛し、その地下の「根」を見た人は数少ない。

かぞえられるほどの人に、日本建築史学の生み親、故伊東忠太博士がある。伊東氏は大正12年、沖縄の建築に接し、特に崇元寺(琉球王朝時代の国廟)の石門に接して、

『その全部の輪郭の簡明にして要を得たる、その線の少くして一も無駄なき、数へ来れば限りなき美点が表れて来る。一見素朴なるが如くにして凝視すれば益々豊富である。一瞥粗野なるが如くにして凝視すればいよいよ高雅である。極めて無雑作なるに似て実は苦心惨憺の作である。甚だ浅薄なるに似て実は重厚深刻の作である。要するにこの門は旧来の因襲に拘泥せずして、新に独創的意匠を試みたもので、清新溌剌たる気分が横溢している。この時この地に於てこの建築に邂逅するは余の最も意外とする処である』。

この言葉は、極めて特異な風土と歴史の中から生まれた琉球建築に陶酔し、木造文化圏(日本文化)の中に石造文化を発見した鋭い喜びの発露であったに違いない。
崇元寺石門
旧崇元寺石門
旧崇元寺の第一門。崇元寺は1527年創建とされる臨済宗の寺だった。国廟として歴代国王の神位が安置され、冊封使来訪時には新王冊封に先立って諭祭(ゆさい)が行われていた。国の重要文化財に指定されている。

更に、この沖縄の存在が、日本文化において極めて意義深い位置にあることに気づき、その文化の「根」を発見して中央に広く紹介した人に、故柳宗悦氏がある。
柳氏は昭和15年、沖縄を訪問して、そこに見たものは歴代王朝の墓陵、玉陵であった。

『地上にどんな墳墓があろうとも、私たちは琉球の玉陵においてより、鬼気迫るものすごいばかりの墳墓を見たことがありませぬ』。

「玉陵」「tamaudun」は、その壮大さを誇る琉球国王歴代の石造建築である。
残念なことだが、日本の建築界が琉球建築の調査研究をしたのは皆無に等しい。昭和12年、早大の田辺泰教授の「琉球建築」以外に研究発表されたものは殆ど見られない。

玉陵
玉 陵
琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。第3代尚真王が父・尚円王を葬るために建築した。

「学界の実情は、視野未だ南島に及ばず」と伊東忠太博士をして嘆かせたが、これらの諸建築も、今次大戦で焼失または破壊され、その大半は姿を消してしまって、戦後は本土の側からの沖縄の建築文化への無関心さを一層つのらしているのが現状である。


二月の某日、職員たちが帰宅して静まりかえった事務所の電話のベルが鳴り出した。

東京中野の白井建築研究所の白井です。明日ホテルのロビーでお会いしたいという。
「はい」。と答えて受話器を置いたが、さて、私は白井?という人に面識がないので困ってしまった。
とにかく、翌日、約束の時間にホテルのロビーで待った。
しばらくして、私の前に現れたのは白髪に白い髭、ロイド眼鏡の奥にキラリと光る目の老紳士は、白井晟一先生であった。
まさか白井先生に、この小さな島でお会いできるとは考えてもみなかったし、信じられないことだった。
不思議なことだが、妙に落着いた気分で何年も前からの知人にでも会っているようで、建築のことなど一言も会話の中に出てこなかった。

この際、是非、先生に見てもらいたい沖縄の石造建築こそ、玉陵であったが、すでに見られたという。

「沖縄は小さな島ではない、優れた固有の芸術文化を持った国である」と言われたが、沖縄の文化の「根」としての石造文化を深く見つめた重い一言のように思える。
ここで白井作品を紹介することは出来ないが、後日、東京の白井建築研究所をお訪ねした。
建築計画を拝見させてもらったが、その計画の中に、沖縄の現代建築が進むべき道しるべが濃縮されているように思えた。

「私の作品が玉陵に優るには、単純な線で構成することだ」。

白井晟一先生は、おそらく沖縄の石造建築(玉陵)以外に眼を呉れることなどなかったろう。沖縄の芸術、その建築文化を賞賛する共通の意識の根を石造建築に求めていたのである。

民族の伝統は結果としては、形を成した物によって認識されるのを常とするが、やがてこれは形骸だけを護ることに陥る危険を伴う。私たちにとって大切なことは形を成す以前の眼に見えない根の力にあるのであって、伝統はいつでもどこでも、私たちの足許を掘って得られる地下水であり、地上の呼び水ではない。
だから伝統の地下を掘り抜いて新鮮な湧き水にたどり着くことである。古びた細々とした呼び水に頼ってはならないのである。
また最近、沖縄を含めて日本の現代建築作品は、形式を破ることに急ぎ、新しいものを追求するあまり、皮肉にも身につけた技術に知らず知らず縛られて、壁にぶち当たり、自由の壁を破ることに専念する結果として生れるものは「変わった建築をつくる」ことであり、その傾向と主張は作品の結果に必然性が感じられないと言っても過言ではないだろう。

今、混迷を続ける沖縄の現代建築は、どのような道をたどってきたのか。
そして、沖縄の伝統的建築文化は、わたしたち沖縄の建築家に、今、何を示唆し問いかけようとしているのか、腰を据えてじっくり構える必要があるのではないかと思うのである。

沖縄の現代建築の出発点は、戦後の焦土と化したゼロの状態の中からだと考えてよいだろう。
ただでさえ資源の乏しい沖縄に米軍による「鉄の暴風」が去った後に残されたものといえば、赤土と石ころだらけの山野であった。

米軍の野戦用のテント小屋での生活が始まったが、沖縄のきびしく苛酷な自然は、テント建築を認めることをしなかった。
島の人たちが英知を結集し、その中から生まれた建築は、石と土と雑木や雑草、周辺に自生する竹など、身近な建築資材で原初的伝統の民家「茅葺きの掘立長屋」を建築してみせたのである。

人間は極限の状態におかれたとき、伝統の様式に目をむけるのである。そして、米軍からの資材支給によるツー・バイ・フォー工法による組立規格住宅、木造瓦葺きの住宅へと変化してきた。
特に学校建築は、建築資材の乏しい中で、その建築工法は特異なものであった。故仲座久雄氏(沖縄建築士会初代会長)の計画によるものだが、両妻に石積みの壁、棟木はプレキャスト、コンクリートの巨大な大梁を架け、在来の赤瓦(本瓦葺き)の建築であった。この特異な建築は仲座氏の鬼才が生んだ建築だとわれわれは考えていた。

ところがこの建築様式は、沖縄の深い深い伝統に裏打ちされた、時代の要求に応えた、仲座氏の力量が遺憾なく発揮された作品だったのである。
仲座氏は校舎建築や、その他の建築にも石積みの作品を残している。このように石積みの伝統を更に一歩を進めた現代建築作品を残した沖縄建築界の大先輩である建築家、仲座久雄氏であったことを記しておきたい。

公共建築は、常にその時代の建築様式に影響を与えるものだが、仲座氏の作品は民家建築にその後も影響を与え続けてきた。

そして、朝鮮戦争が始まると米軍の基地拡張、米人住宅建設によって沖縄に初めてコンクリート・ブロックが招聘された。
米人住宅への住民の憧れ、度重なる台風の脅威から逃れたいとう願望する島民にとって、コンクリート・ブロックの建築様式は、また、たまらない魅力のある建築材料であった。
同時に沖縄で組積工法がなんの抵抗もなく受け入れられたのは、本土の木造文化に対して沖縄の文化の特異性を示す石造文化(組積造)を伝統としていたからである。

しかし、沖縄の人は決して石の家「ishiya-」は造らなかった。
石は建築材料として使われても、壁、柱としてしか使われない。石の家は、沖縄の人たちにとって「死者の家」であったり、墓の代名詞である。だから、ブロック建築が建ち始めた頃、生きていて石の家に入るものかと、怒った老人たちの話があちこちで聞かれた。

沖縄の人たちが、優れた石造文化を持ちながらヨーロッパの石造建築の模倣をしなかったのは何故か…。

『石は自然の脅威に対して堅固に人間を守るが、同時に石造りの建物の内部では明確に人間を拒否している。ヨーロッパの老人たちに見られる特有のリューマチや骨の病気は石造りの建物の中での、生の緩慢な壊死の現象である』

終戦後の那覇市の様子
終戦直後の那覇市中心部の様子
規格家
仲座久雄氏が考案した2×4構法による「規格家」。戦後の住宅不足解消に役立った。
学校建築@
学校建築A
1951年型とされる標準型校舎。上は煉瓦造平屋建本瓦葺、下は粟石積平屋建本瓦葺
と文芸評論家、響庭孝男氏が指摘しているように、それが石の非情性と沈黙の暴力が、徐々に有機体の生の機能を犯して行くことを警告していることを思えば、沖縄の先人たちは、石が生き物であり、そして、石は人間を包み込む暖かさと、冷淡で無慈悲で非情な二面性をもつ、建築材料であることを悟っていたに違いないからである。

だから、戦後のブロック建築の隆盛をみた沖縄の民家建築も、外部こそ自然の猛威に対して堅固なブロックやコンクリート造ではあっても、その住空間は依然として、湿度から身を守る木造りの建築であることを忘れてはならないのである。
沖縄のブロック建築がもつ造形性(組積工法)その根底の流れが石造建築と共通性をもつものであっても、石造とブロック造が同質であっても石造建築のもつ初言的な造形性、大地から芽ばえ、大地に根ざした形態の力強さ、表現性豊かな、その魅力のとりこになって、形骸だけを護ることになっては伝統文化の根を見失い、その豊かな根を枯死させることになりはしないだろうか。
沖縄の現代建築に最も大きな影響を与えたのは、琉球政府第一庁舎(現県庁舎)=松田・平田建築設計事務所の作品であろう。
当時の建築技術の最高レベルを行くものであった。本土との交流が断ち切られ、建築雑誌も回し読みする状態であったから、若い建築家たちにとって、コルビュジェの作品を想起させるこの建築は憧れの的であった。その建築色彩に同調して、那覇の街がクリーム色に塗り替えられるほどであった。

1960年代、沖縄の建築界で特筆しておかなければならないことは、博物館コンペである。その土地における時代の建築思潮を表現し、内外に誇りを持って賞賛される計画案を求めたのである。
われわれの祖先たちが首里城正殿や、円覚寺、玉陵などその他、優れた国宝建築を創ったように、荒廃したわれわれの郷土に立派な代表的建築をしたいというのが発注者の念願であった。初めて地域を意識し、伝統の建築文化を現代建築に生かすことに眼を向けたのである。

しかし、結果的には権威あるべきはずの審査員たちが、軽率にも、現代に消化されないナマの沖縄的なる建築を当選させたがために、建築家たちの期待を裏切り失敗に終った。しかし、コンペは失敗に終っても、後に「伝統建築論」があらゆる方向から論議されたことは、沖縄の建築界にとって大きな弾みになったことは確かである。
琉球政府第一庁舎
琉球政府第一庁舎
1953年完成。1968年に米国民政府が浦添市小湾に移転するまでは、上階を米国民政府、下階を琉球政府が入居。1990年に現在の沖縄県庁舎が完成するまで沖縄県庁舎第1本庁舎として使用されていた。

そして、1970年代になって、沖縄の現代建築のあり方を問うのが「那覇市民会館」の建築である。
この建築は、沖縄の伝統的建築を再生し、現代建築のあり方を問い、戦後の現代建築の原型にもなったと思っている。事実、私を含めて沖縄の建築界は、その以前まで沖縄の伝統を生の形で捉えていたからである。

現代建築は、単に伝統の「形」の模倣であってはならないのだが、伝統だけを口にして、伝統の悪影響を及ぼすほどであった。
各地で建築されている住宅などの建築意匠に、市民会館の庇を消化不良のまま取ってつけたような作品が今日でも見られるが、貧弱な伝統への意識で建築されたのでは困る。模倣の建築は、どこまでも模倣であり、それを乗り越えることはできない。そのような意識で設計している建築家たちは、不幸だと言わねばならないからである。

今年は、日本復帰十周年、沖縄の建築は源流を見失っているのではないか、この目まぐるしい社会の中で、私たちは、文化を築けるのだろうか。不安が先立ってくる時代である。

沖縄もまた外来文化のいいものも悪いものも同時に取り入れる癖がある。これが沖縄の長所でもあり短所でもあるが、この十年間で沖縄の現代建築は国籍不明の建築になり下がってしまったのではないか。

カーテン・ウォールの事務所建築、明治時代のランダム模様のタイル貼りの建築、中世ヨーロッパ風のベルバラ建築等々、現代日本の亜流建築が沖縄に流れ込んでいる状態である。本土の建築を見習う時ではない、有名建築家たちの作品に同調する必要もない、ヨーロッパやアメリカ建築の模倣ではないかと疑いたくなる作品にはあきあきしてきた。このような流行の建築など、朽ち果てて消滅する運命の建築である。

苛酷な沖縄の自然に耐えられず、朽ちていったコンクリートの建築を沖縄の建築家たちは体験してきた。庭に咲く一輪の花のように、弱々しく人々に哀れみを乞う、見てくれ主義の建築より、ガジュマルのように所かまわず根を張り、抱きつき、からまり力強くしたたかなもの、手を足をもぎとられても、その部分に生命力を持ち続けるものでなくてはならない。そのような樹木に花は咲かない。沖縄の現代建築は花の咲く建築ではなくとも、この痩せこけた大地の奥深く、根を張り、生命の源泉にたどり着くまで建築家が模索しなければならないのである。

伝統建築は、地域の自然的風土と、精神的風土に育まれ、その時代の人間の価値観による生活の舞台装置としての証言者であることを忘れてはならないのである。

現代のこの、われわれの住んでいる沖縄の現代建築や都市が、この時代に生きた人々の日々の生活、その時代の価値観による舞台装置であることを次の世代に誇れるものかどうか、実に疑わしい現代建築群の氾濫である。この現実から抜け出す道は建築家たちの自覚を待つしかない。

北海道から九州までの本州弧の長さにほぼ匹敵する琉球弧の風土と、その歴史が育んできた伝統の芸術文化の「根」の特異性を手探りでも見つけなければならないのである。

1982年ごろに執筆されたもの (『沖縄 原空間との対話』(1983年 (資)門設計研究所 発行)に掲載)
※掲載にあたり原文をそのまま使用していますが、誤字は修正しています。

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