1974年、39歳のときに沖縄国際海洋博覧会「沖縄館」の設計監理を行う。
巨大なピラミッド型の赤瓦の大屋根。27年の異民族支配に耐えてきた沖縄の人々のメモリアルシンボルとしたい想いがあった。
沖縄館の屋根の軒の長さは、1辺37メートルの正方形。勾配7寸、屋根の面積3330平方メートル、屋根に使用された瓦の枚数はざっと12万枚。沖縄最大の赤瓦葺きの大屋根だった。八幡瓦工場の八幡薫氏と、屋根葺工の島袋政次郎氏、二人の職人の技術と執念があったからこそ完成に結びついたという。
「島袋氏や八幡氏のような職人たちがまだまだ沖縄で健在であることを知り心強く思っている。現代は物の効果だけに熱心になりがちである。そして物からは最後の結果に打たれているものだと錯誤しがちである。私はつぎの言葉を思い出す。
美を求むれば即ち美を得ず 美を求むざれば即ち美を得る 」。 (「沖縄の職人たち」より)
1972年の現代設計で沖縄みゆき観光ホテル計画に携わった際、落成パーティの席で出会った音楽家・海勢頭豊氏に共鳴し、しばらくしてから海勢頭氏が経営する「パピリオン」へ毎夜のように出かけていくようになる。
「パピリオン」には、沖縄県内外の文化人が集っていた。建築家、写真家、画家、工芸家、文学・音楽・芸能家、一流ジャーナリストなど。そこで出会った人々との交流について「夜の神々へ会いに行く」と書き記している。
当時のことを知る詩人の川満信一氏は「ものづくりに取り組む人間は、どんなジャンルにおいても素材に命を吹き込むことを生業としている。その点で皆同じなのだ。だから言葉はなくとも共感・共鳴しあえたのだ」と話してくれた。信吉にとって「パピリオン」はそんな場所だった。
信吉と海勢頭豊氏が出会ったとき、海勢頭氏は「琉球讃歌」を唄っていた。
「パピリオン」で海勢頭氏が「琉球讃歌」を歌えば、信吉がゆっくりとしたリズムで踊り出した。
その踊りはほどなく訪れる人たちの間で話題になり、踊り見たさに店を訪れる常連もいた。中には琉球舞踊の師匠たちや舞踊家たちもいた。
海勢頭氏は「そのときの踊りは独特で、ジョー(信吉の愛称)にしか踊れないものだった。『津嘉山舞型』じゃなかったか?」と話す。
「シマー、ミーランナトーシガ」、「ナマサンネー、イチスガ」を口癖のように繰り返し、踊る信吉の姿が、多くの人の眼に焼きついている。
海勢頭氏が「琉球讃歌」を作ったのは、海洋博がきっかけだった。本土からやってくる大きなものに沖縄がなくなってしまうのではないかという不安、喪失感から作ったのだという。
「それを聞いて、ジョーが踊り出した」。同じ気持ちを持っていた信吉には、曲に込められた想いが響いたのだ。
1978年、インドネシア・沖縄芸能交流使節団とともにバリ島の民族舞踊と民家を訪ねる旅に出ているが、海勢頭氏と一緒に出かけている。
1979年、ガウディ展をガウディ展沖縄実行委員として国場ビルで開催。同年、沖縄県文化界友好訪中団として中国(香港、広州、北京、大同、大原、大寒)の民家、仏教遺跡を訪ね歩く。
1980年、第5回建築写真展「宮古島の建築」を開催。台湾(台南、台中、台北)の民芸と民家を訪ねる。沖縄本島各地のグスク、御嶽、墓、石橋等の撮影をはじめる。1981年、県立博物館で行われた「沖縄の美」展に展示参加している。
1982年2月、47歳のとき最も尊敬し続けてきた建築家、白井晟一氏に那覇市で出会う。
「職員たちが帰宅して静まりかえった事務所の電話のベルが鳴り出した。
東京中野の白井建築研究所の白井です。明日ホテルのロビーでお会いしたい という。
『はい』。と答えて受話器を置いたが、さて、私は白井?という人に面識がないので困ってしまった。
とにかく、翌日、約束の時間にホテルのロビーで待った。
しばらくして、私の前に現れたのは白髪に白い髭、ロイド眼鏡の奥にキラリと光る目の老紳士は、
白井晟一先生であった。
まさか白井先生に、この小さな島でお会いできるとは考えてもみなかったし、信じられないことだった。
不思議なことだが、妙に落着いた気分で何年も前からの知人にでも会っているようで、
建築のことなど一言も会話の中に出てこなかった」 (「沖縄の現代建築と地域性−伝統と現代建築のはざまで−」より)
白井晟一氏に出会った感動をこのように書いている。
白井氏は、「沖縄は小さな島ではない、優れた固有の芸術文化を持った国である」と語り、信吉は、沖縄の文化の「根」としての石造文化を深く見つめた重い一言として捉えている。
その後、東京の白井建築研究所を訪ね、建築計画を拝見し、その中に「沖縄の現代建築が進むべき道しるべが濃縮されているように思えた」としている。
1983年、48歳のとき、1987年に開催される沖縄国体の会場となる陸上競技場の実施設計を行う。8月に硫黄鳥島を訪れている。自身の最初で最後の作品集となった「沖縄・原空間との対話」を出版。友人たちに贈呈する。
翌1984年4月10日、49歳で急逝。肺血腫だった。
妻・春子さんは、「海洋博の後、ホテル計画の頓挫で大きな借金を背負ってしまった。その借金を10年かけて完済して、それから4カ月しか彼は生きてないんです」と振り返っていた。
沖縄が見えなくなっていく不安と喪失感を抱えながら、現実的な大きな負担も抱えていた。どんな思いを持ちながら亡くなっていったのだろうか−。
写真からは一見して強面な印象も受けるのだが、人懐こい目で感じたままを臆せず言葉にする人だった。
どんな巨匠たちと出会っても、緊張したり人おじすることはなく、誰でも、どんなものでも受け入れるウチナーンチュ気質を持ち「感性のままを言葉にしていた人だった」という。自然と人を寄せつける魅力を持った、本当に魅力的な人だった。
現代建築設計事務所の先輩であり従兄である金城俊光氏とは比べられることも多い。
「俊光と信吉は例えれば “静と動”。違う魅力を持った、偉大な二人だったと思う」。二人を知る人はそう話してくれた。俊光氏は信吉が亡くなった翌年に亡くなってしまう。
金城信吉のことを、当時の職員や友人たちは「やさしい人だった」という。
「人にやさしくなければ建築はできない」といい、楽しく建築をさせてくれたと口をそろえる。
亡くなってから一年がたったとき、仲間たちの手によって「金城信吉遺作展」が開催された。実行委員会代表を詩人の川満信一氏が務めた。
沖縄の建築を研究し、金城信吉の仕事に深い関心を持っていた武者英二氏(法政大学教授)のはからいによって、沖縄で開催された遺作展が東京でも開催された。
沖縄の建築界において数々の優れた建物をつくり、「沖縄の建築はどうあるべきか、沖縄とは何か」を追い続けた金城信吉。建築を語り、建築を謳い続けながら、現代建築への再構築を求めて疾走し続けた。炎のような情熱は、仲間たちの共感を呼び、亡くなって30年近くがたった今でも、思い出す人々の胸を熱くさせる存在である。 |