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TOP沖縄・建築家たちの言説> 【沖縄の原風景との対話 建築家金城信吉の世界】
   

那覇市民会館や海洋博の沖縄館の設計で知られる金城信吉は、1934年12月に南風原村(現在の南風原町)で二男二女の長男として生まれる。妹二人とは幼いころに死別し、父親は軍属で支那で勤務していたため、幼いころ父親と生活したことはなく母親と弟の三人家族で育った。1941年、信吉が6歳のときに太平洋戦争が始まる。

1944年、9歳のときに父親が第21大村海軍航空隊に勤務することになり、その年の3月、家族疎開で長崎県大村市に移った。
しかし、父はすぐに沖縄へ転勤することになり、家族を長崎に残し沖縄へ。その後、沖縄戦で戦死する。

1945年8月、長崎に原子爆弾が投下され太平洋戦争が終了。
同年10月に長崎から沖縄へ戻り、久場崎の収容所で3日間滞在した後、津嘉山部落に戻り茅葺きの長屋住まいが始まる。

長屋住まいの間に、台風で飛び散る自宅を見た信吉は、台風に負けない丈夫な家を建てたいと思い建築家を志す。
自身の記録に「終戦直後の家畜小屋のような住まいが、容赦なく襲ってくる台風で、バラバラになって空中へ飛び散っていた日、幼い心の張り詰めた琴線を強烈に掻きむしられるような悔しさが、建築家の道へ歩む素朴な動機であった」と書いている。
規格住宅
終戦直後の2×4(ツーバイフォー)規格住宅(キカクヤー)

1952年、沖縄工業高等学校建築科を卒業した後、琉球政府工務交通局建築課に就職。屋我地島のハンセン氏病保養所の病棟、宿舎、教会の工事監理を補佐する。
1953年、18歳のときに「沖縄工業高等学校健児の塔コンペ」に当選し、糸満市摩武仁に建立される。同じ年に一番目の自宅である「白の家」(木造平屋スレート葺、8坪)を設計する。
琉球政府時代に設計した主なものには、与那国気象台、琉球政府第二庁舎、阿嘉郵便局、高嶺郵便局、茅打バンタ展望台、与勝海上展望台、摩武仁の丘展望台などがある。浦添ようどれ(尚寧王陵)の工事監督補佐も行った。

白の家 沖縄工業健児の塔
白の家(1953年) 沖縄工業健児の塔(1955年)
終戦直後の掘立茅葺きの住まいから明るくハイカラな住宅にしたいと思った。工業高校を卒業した年、10代の作。
コンペに1等当選。7本の柱と横梁の単純な構成で、手をとりあう健児たちの立像を表現した。
公務員として7年過ごしたが、「わたしの建築することへの想いを満足させるものではなかった」という信吉は、1959年24歳のときに東京へ向かう。
「中央(東京)には何かがある」。
若い血の騒ぎをおさえることができなかったと語る信吉は、友人の紹介で日本大学教授・加藤渉氏のカトー設計事務所へ入所した。そこで過ごした3年間は、「無我夢中で建築し技術的な基礎を学ぶことができた」とし、同時に沖縄という島を強烈に意識することにつながっていく。
カトー設計事務所では、長崎県交通会館、新潟国体野球場、千葉県茂原市庁舎などの設計を行った。

沖縄に戻った信吉は、先輩の蒿原安一郎氏を先頭に結成された「若い建築家のグループ」に参加して、沖縄の建築はどうあるべきかを語りあった。それを契機に、沖縄の民家を訪ねることになる。

はじめて民家探訪に誘ったのは、親泊元高氏(沖縄工業高校教諭)である。沖縄本島をはじめ周辺の島々を巡っていく。
北は奄美大島、南は与那国島までを約20年の歳月をかけて旅して回り、島の民家やムラの様子を写真に撮りながら、島の人々との交流もおこなっていった。

東京から沖縄に戻り、叔父(大村重信氏)が経営する設計事務所(現代建築設計事務所)に入社した。
そこで、奥武山陸上競技場、奥武山ドライブイン、大山ソニービル、浦添市庁舎、那覇市公会堂(那覇市民会館)、那覇タワービル、沖縄グランドキャッスルホテル、沖縄みゆき観光ホテルなどの計画・設計を手がけていく。現代建築設計事務所での第一回目の作品が奥武山陸上競技場である。

現代建築設計事務所で手がけた首里の博物館の公開コンペ応募作が沖縄を意識的に打ち出した最初の作品であったという。
「沖縄的といえば赤瓦」というようなものではあったが、それを契機に信吉の沖縄へのアプローチが急速に深化していく。
「これからの沖縄はいかにあるべきか」という問いかけは結局、「沖縄とは何か」という問いかけに帰着し、島々をめぐり民家を調査していったこともそのような問題意識から生まれたものだった。

沖縄の風景
沖縄の風景
島めぐりで撮影された写真

那覇市公会堂(那覇市民会館)の設計は、現代建築設計事務所で一緒に働いていた金城俊光氏(きんじょうとしみつ 従兄にあたる)との共同設計。内部を俊光氏、外部を信吉が担当したという。

当時、香川県慰霊塔「奉公さん」の工事監理で、香川県知事・金子正則氏と出会い、建築を語りあう。地域と風土の建築を愛する建築家・山本忠司氏を知り、香川県の現代建築を訪ねて「イサム家」(彫刻家イサム・ノグチの家)に宿泊して讃岐の工芸に感動。沖縄に戻ってから壺屋に日参するようになったという。

壺屋の新垣栄三郎氏の工房を、短い時間ではあったが日曜日以外の毎日訪れ、ヤチムン(焼物)へ傾倒していく。
壺屋に通うようになって1年ほどして、壺屋を訪れていた陶芸家・浜田庄司氏と出会う。浜田氏の言葉に大きく感動し、自分のものにしていく努力をしていた。益子の浜田邸にも幾度か訪れている。

1972年、本土復帰の年に沖縄を訪れた棟方志功氏にも出会い、「誰よりも子供のように誰よりも人間らしい人に出会ったような気がする」といい、「あれだけの怪物に出会うことはもうないだろう」と書いている。

島めぐりやヤチムン、ものづくりへ情熱をかける偉大な人たちとの交流を通して、自身の生きる土地を一層深く捉え、「沖縄の建築は光と影の建築でなければならない」と悟ったのだった。

光と影の建築の象徴的なフォルムを提案する那覇市公会堂コンペ案は当選。この公開コンペの審査にあたった大江宏氏(法政大学教授)と山本学治氏(東京芸大教授)の両氏は、この当選案を絶賛して、「今後の公共建築のひとつの指標たり得る」と評した。

那覇市公会堂設計の後、那覇タワービルや三番目の自宅などの設計を行い、独立へ。1973年、那覇市久茂地に門設計研究所を設立する。
三番目の自宅については、「陶工・河井寛次郎との対話」を読んで感動し、京都五条に河井邸を訪ねている。「作品のかずかずをみたとき、からだ全体にふるえを感じたのである。三番目の自宅はある意味でかなりの影響をうけているかも知れない」。
「三番目の自宅」は日本建築士会連合会第1回会員作品展で優秀賞を受賞した。

この年、沖縄物産センター画廊で「第一回建築作品展 〜光と影を求めて〜」を企画主催。島をめぐって撮影した多くの写真を通して沖縄の建築を紹介した。この写真展を開いたことで写真家の水島源晃氏と出会い、以後、共に離島の民家を訪ねることになる。この写真展は、第5回まで開催された。

沖縄館

1974年、39歳のときに沖縄国際海洋博覧会「沖縄館」の設計監理を行う。
巨大なピラミッド型の赤瓦の大屋根。27年の異民族支配に耐えてきた沖縄の人々のメモリアルシンボルとしたい想いがあった。
沖縄館の屋根の軒の長さは、1辺37メートルの正方形。勾配7寸、屋根の面積3330平方メートル、屋根に使用された瓦の枚数はざっと12万枚。沖縄最大の赤瓦葺きの大屋根だった。八幡瓦工場の八幡薫氏と、屋根葺工の島袋政次郎氏、二人の職人の技術と執念があったからこそ完成に結びついたという。

「島袋氏や八幡氏のような職人たちがまだまだ沖縄で健在であることを知り心強く思っている。現代は物の効果だけに熱心になりがちである。そして物からは最後の結果に打たれているものだと錯誤しがちである。私はつぎの言葉を思い出す。
 美を求むれば即ち美を得ず  美を求むざれば即ち美を得る  」。 (「沖縄の職人たち」より)

1972年の現代設計で沖縄みゆき観光ホテル計画に携わった際、落成パーティの席で出会った音楽家・海勢頭豊氏に共鳴し、しばらくしてから海勢頭氏が経営する「パピリオン」へ毎夜のように出かけていくようになる。

「パピリオン」には、沖縄県内外の文化人が集っていた。建築家、写真家、画家、工芸家、文学・音楽・芸能家、一流ジャーナリストなど。そこで出会った人々との交流について「夜の神々へ会いに行く」と書き記している。
当時のことを知る詩人の川満信一氏は「ものづくりに取り組む人間は、どんなジャンルにおいても素材に命を吹き込むことを生業としている。その点で皆同じなのだ。だから言葉はなくとも共感・共鳴しあえたのだ」と話してくれた。信吉にとって「パピリオン」はそんな場所だった。

信吉と海勢頭豊氏が出会ったとき、海勢頭氏は「琉球讃歌」を唄っていた。
「パピリオン」で海勢頭氏が「琉球讃歌」を歌えば、信吉がゆっくりとしたリズムで踊り出した。
その踊りはほどなく訪れる人たちの間で話題になり、踊り見たさに店を訪れる常連もいた。中には琉球舞踊の師匠たちや舞踊家たちもいた。
海勢頭氏は「そのときの踊りは独特で、ジョー(信吉の愛称)にしか踊れないものだった。『津嘉山舞型』じゃなかったか?」と話す。
「シマー、ミーランナトーシガ」、「ナマサンネー、イチスガ」を口癖のように繰り返し、踊る信吉の姿が、多くの人の眼に焼きついている。

海勢頭氏が「琉球讃歌」を作ったのは、海洋博がきっかけだった。本土からやってくる大きなものに沖縄がなくなってしまうのではないかという不安、喪失感から作ったのだという。
「それを聞いて、ジョーが踊り出した」。同じ気持ちを持っていた信吉には、曲に込められた想いが響いたのだ。

1978年、インドネシア・沖縄芸能交流使節団とともにバリ島の民族舞踊と民家を訪ねる旅に出ているが、海勢頭氏と一緒に出かけている。

1979年、ガウディ展をガウディ展沖縄実行委員として国場ビルで開催。同年、沖縄県文化界友好訪中団として中国(香港、広州、北京、大同、大原、大寒)の民家、仏教遺跡を訪ね歩く。

1980年、第5回建築写真展「宮古島の建築」を開催。台湾(台南、台中、台北)の民芸と民家を訪ねる。沖縄本島各地のグスク、御嶽、墓、石橋等の撮影をはじめる。1981年、県立博物館で行われた「沖縄の美」展に展示参加している。

1982年2月、47歳のとき最も尊敬し続けてきた建築家、白井晟一氏に那覇市で出会う。

 「職員たちが帰宅して静まりかえった事務所の電話のベルが鳴り出した。
  東京中野の白井建築研究所の白井です。明日ホテルのロビーでお会いしたい という。
  『はい』。と答えて受話器を置いたが、さて、私は白井?という人に面識がないので困ってしまった。
  とにかく、翌日、約束の時間にホテルのロビーで待った。
  しばらくして、私の前に現れたのは白髪に白い髭、ロイド眼鏡の奥にキラリと光る目の老紳士は、
  白井晟一先生であった。
 
  まさか白井先生に、この小さな島でお会いできるとは考えてもみなかったし、信じられないことだった。
  不思議なことだが、妙に落着いた気分で何年も前からの知人にでも会っているようで、
  建築のことなど一言も会話の中に出てこなかった」  (「沖縄の現代建築と地域性−伝統と現代建築のはざまで−」より)

白井晟一氏に出会った感動をこのように書いている。
白井氏は、「沖縄は小さな島ではない、優れた固有の芸術文化を持った国である」と語り、信吉は、沖縄の文化の「根」としての石造文化を深く見つめた重い一言として捉えている。
その後、東京の白井建築研究所を訪ね、建築計画を拝見し、その中に「沖縄の現代建築が進むべき道しるべが濃縮されているように思えた」としている。

1983年、48歳のとき、1987年に開催される沖縄国体の会場となる陸上競技場の実施設計を行う。8月に硫黄鳥島を訪れている。自身の最初で最後の作品集となった「沖縄・原空間との対話」を出版。友人たちに贈呈する。

翌1984年4月10日、49歳で急逝。肺血腫だった。

妻・春子さんは、「海洋博の後、ホテル計画の頓挫で大きな借金を背負ってしまった。その借金を10年かけて完済して、それから4カ月しか彼は生きてないんです」と振り返っていた。
沖縄が見えなくなっていく不安と喪失感を抱えながら、現実的な大きな負担も抱えていた。どんな思いを持ちながら亡くなっていったのだろうか−。

写真からは一見して強面な印象も受けるのだが、人懐こい目で感じたままを臆せず言葉にする人だった。
どんな巨匠たちと出会っても、緊張したり人おじすることはなく、誰でも、どんなものでも受け入れるウチナーンチュ気質を持ち「感性のままを言葉にしていた人だった」という。自然と人を寄せつける魅力を持った、本当に魅力的な人だった。

現代建築設計事務所の先輩であり従兄である金城俊光氏とは比べられることも多い。
「俊光と信吉は例えれば “静と動”。違う魅力を持った、偉大な二人だったと思う」。二人を知る人はそう話してくれた。俊光氏は信吉が亡くなった翌年に亡くなってしまう。

金城信吉のことを、当時の職員や友人たちは「やさしい人だった」という。
「人にやさしくなければ建築はできない」といい、楽しく建築をさせてくれたと口をそろえる。

亡くなってから一年がたったとき、仲間たちの手によって「金城信吉遺作展」が開催された。実行委員会代表を詩人の川満信一氏が務めた。
沖縄の建築を研究し、金城信吉の仕事に深い関心を持っていた武者英二氏(法政大学教授)のはからいによって、沖縄で開催された遺作展が東京でも開催された。

沖縄の建築界において数々の優れた建物をつくり、「沖縄の建築はどうあるべきか、沖縄とは何か」を追い続けた金城信吉。建築を語り、建築を謳い続けながら、現代建築への再構築を求めて疾走し続けた。炎のような情熱は、仲間たちの共感を呼び、亡くなって30年近くがたった今でも、思い出す人々の胸を熱くさせる存在である。

<参考資料>
「沖縄 原空間との対話」 1983年 (資)門設計研究所 発行
「門設計研究所 作品集」 1978年 (資)門設計研究所 発行
「金城信吉建築遺作展 沖縄原空間との対話」パンフレット  1985年 金城信吉建築遺作展実行委員会 制作
「NHK日曜美術館 『未完の設計図−建築家金城信吉−』   1988年 NHK
「ウチナー紀聞 『沖縄の建築文化』」  1998年 提供・沖縄電力

<お話>
崎濱国繁さん(國設計)
山田正永さん(アトリエ更囲)
仲村渠常広さん((株)建築設計同人 匠才庵)
海勢頭豊さん(音楽家、パピリオン)
川満信一さん(詩人)   

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