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TOP特集一覧沖縄・建築家たちの言説 > 第9回 戦後の住居の遷り変り 
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沖縄・建築家たちの言説
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1.総説

戦後の住居の遷り変わりの前に、なぜ沖縄の住居の形態が変わっていったかについて、概略を述べなければならない。
それは次のような理由によって、衣食住のすべてが「無」から始まっていったからである。

(1)沖縄戦

太平洋戦争(我が国では大東亜戦争と呼んだ)の末期、昭和20年春3月23日に沖縄本島に米軍の大空襲があり、続いて25日には那覇の西方に横たわる慶良間群島に米軍が先制上陸し、31日には那覇港沖に低く点在する神山島(方言で慶伊干瀬という小島の一つ)を占領し那覇首里方面へ砲でもって攻撃を開始したといわれる。

米軍は、飛行機1,500機、艦船1,400隻を投入して、4月1日に米軍を先頭に連合国軍は、米軍第24兵隊第三水陸両用隊バクナー中将指揮のもとに、中部西海岸の嘉手納海岸に殺到、日本軍の無抵抗の内に一気に上陸して、4月5日には沖縄本島を南北に二分してしまった。

4月2日には嘉手納飛行場を占領した。その後からようやく日本軍の組織的戦闘が展開した。最も戦いの激しかったのは宜野湾から浦添で、首里城の軍司令部を控えており、日米両軍は本当に死力を尽くして戦った。
昼間は米軍の戦争、艦砲射撃で、陣地を米軍に奪われ、夜間は夜襲によって日本軍がその陣地を奪取するという、取ったり取られたりの戦闘が4月下旬から1か月も続いた。

沖縄本島に上陸する米軍(昭和20年4月)
10・10空襲以来、米軍の激しい攻撃を受けて壊滅した那覇市街

(2)難民収容所

このようにして、県民は人間生活の三要素である「衣、食、住」の三つとも、この3か月で失ったことになる。
「国破れて山河あり」とよく言われるが、一木一草までことごとく焼き尽くされた。こんな悲惨な歴史が27年前(この原稿が書かれたのは昭和47年7月)に現実に沖縄で行われ存在したのである。

県民は日本軍人ととは別に、各地に設けられた難民収容所に収容されて、米軍支給の大型テント小屋に起居し、わずかの食糧(米軍用の携帯口糧、リレーションと呼ばれた)と、米軍の野戦服を衣料として与えられた。
このテント小屋には、老若男女の別なく、雑居生活であったようである。

テント小屋は、4m×5mくらいのもので、広場にテントを張り立て、床は土間に板切れかダンボールなどの厚紙を敷いていたようである。壁はテントの垂れ下がり、窓はなく、小さな換気孔があり、出入口もテントの垂れ下がりであった。

戦闘終了直後の県民の住居は雨露をしのぐだけのテント小屋が唯一の住居だったと言える。この時点を戦後の住居の始まりとして、私の知り得た資料によって組み立ててみる。
石川の米軍政府の仮設収容所の風景
金武村屋嘉区にあった屋嘉捕虜収容所。日本軍の捕虜を収容する沖縄最大規模の収容所。日本兵、朝鮮兵、沖縄兵を収容するテントが並ぶ
2.規格住宅

1945年8月15日に沖縄諮詢会が設立されて、自治体形が発足し、9月1日に諮詢会内に工務部が設置され、住居の早期的な建設が計画された。
その計画設計は、初代沖縄建築士会会長だった仲座久雄氏があった。(前田朝信氏の話)
1946年春頃から、規格住宅(俗に規格家「キカクヤー」と呼んだ)の無償配給が各地区の工務出張所によって、各市町村を通じて行われた。

規格住宅は軸部材すべてを2寸×4寸の(俗にアメリカ読みでトゥバイフォーといった)平割材を使い、大釘打ちで組み立てられる規格化した構造と大きさにしたので通称規格住宅といわれた。現在のプレハブ住宅の最も原始的な簡単なものと思えばよい。

面積は母屋が5.33坪、下屋が1.33坪で延べ6.66坪である。
大きさは図示のように、桁行16尺、梁間12尺(註・アメリカ式に、4の倍数を使用したとのことである)の建物に後側に幅6尺長さ8尺の葦下し下屋をつけた平面である。

まず基礎は杭を打ち、土台を乗せ大引、根太等をかけて床を作り、その上に軸部を組み立てた。床高は敷地との関係で適当な高さにしたようである。
柱高は13尺もの二つ切りであった。
屋根は方形でテント張り又は茅葺きに便利なようにしてある。テントが主体だったので米軍のテント12寸×6寸ものを、屋根から壁まですっぽりかぶせるように考案されたとのことである。
床は根太に板張り、国頭地方では山原竹(琉球竹)あるいは、ほてい竹(釣竿用)等を敷き並べたようである。
構造材(軸部材)としての資材は米軍支給のもので日本杉、檜、米松、等であり、床板材は少なく箱板等を使用したのが多く、八重山西表島あたりから松材を運んで製材して配給した。
なお国頭地方では山から資材を伐り出して自給したので、補助金を与えて建築した。

この規格住宅は46、47、48年頃まで配給されて打ち切られた。県民の戦災復興応急住宅としては大成功だったと思う。

なお、この3年間に造られた棟数は7,500棟であった。
敷地は各部落毎に適当な土地を選定して、一戸当たり平均30坪(約100平方メートル)が割り当てられ、整然と区画して建てられたのが多かった。

終戦後の物の少なかった時代のこの住宅を入手した人々は、やっと物心ついたようであった。

各地につくられた規格住宅

しかしいろいろな都合で都市地区に居住した人々の中には配給もれの人達も居たようである。

余談として、屋根材を軍から横流れした波型トタンで葺いたりした場合は、目立ちすぎて警察沙汰になったこともあったようである。

なお、25年経った現在、那覇市内にこの規格住宅が散見される。
3.復金住宅時代

(1)自主住宅建築
1950年(昭和25年)頃になると、国頭産の木材が販売されたり、また、沖縄群島政府の公共建物、学校校舎建築等の工事も本格的になって来た。
そして、その工事等の残材、アメリカ軍からの横流れ材(俗に戦果品といった)、あるいは九州あたりから密貿易による闇材として杉材等が市場に出回り、金さえ出せば資材が入手できるようになった。
こういうルートの建築材料が住居の復興に拍車をかけたようである。
屋根材の瓦(素焼の本瓦)の窯が各地にできたのは公共建築、学校建築等の需要があったので入手には苦労しなかった。
しかし、自主的に自力で建築できる人々はわずかであった。

(2)復金住宅
この年(1950年)の4月10日にアメリカ軍政府布令第4号の公布により、琉球復興金融金庫が設置されてからは、住宅建築を対象にして、本格的な住居建築が促進された。

この復興金融金庫(略して復金と呼んだ)を利用できるようになり、土地の有る者、あるいは借りられる者は、手持資金(工事費の30%)があれば、長期融資として木造瓦葺き、煉瓦造または鉄筋コンクリートブロック造(構造体鉄筋コンクリート、壁体コンクリートブロック造で今日のカーテンウォール式の構造)が盛んになり、屋根も鉄筋コンクリートの陸屋根または瓦葺きの建物が急速に普及してきた。

さらにこの頃から米軍の兵舎工事等はほとんどコンクリートブロック造が多く、耐風的である点などから民間でも資金面に多少無理をしてもコンクリートブロック造を重視するよになり、復金でもその点を考慮して、本造瓦葺きよりも、融資金が多く貸付年限も長く利用者は有利だった。

それからの住居建築は台風等の影響もあって、次第にこの構造に変わり急速に伸展した。
現在は沖縄における住居建築の95%を占めるようになった。この復金住宅は25坪以内で、平面計画は自由であったが、貸家建築にはあまり融資されなかった。
貸付最高年限は  鉄筋コンクリートまたは煉瓦造・・・20年、木造・・・15年
手持ち資金は最初は30%だったが、あとから資金量が増えたので15%になり、自己所有の土地に建てる場合は100%融資された。
しかし評価額と工事費の市価とは20%〜30%の開きがあったので、100%借入れしても、手持ち資金の準備が必要であった。

いずれにしても、復金が沖縄の住宅建築に対して果たした役割は最大級のものであったといわざるを得ない。

4.木造住宅建築

木造住宅建築は、沖縄古来の伝統の歴史を秘めて、その工法が伝えられてきた。俗に「貫木屋(ヌチギヤー)」「貫屋(ヌチヤー)」と呼ばれているのがそれである。

その工法を簡単に説明すると次のようになる。

敷地地盤より一段と上げて建家地盤をつくり、礎石を据え柱を建てる(土台なし)、柱は各々1尺5寸平均に貫穴をあけておき、その柱に貫を通して連結し、楔で柱と貫を緊結し、柱上部柄に軒桁を置き、和小屋を組み立てる(勾配5寸)。
その小屋に たるきを置き野地竹を敷き並べ、葺土を敷いて本瓦を噴き上げ、漆喰で瓦の継目を塗り固める。
また、茅葺きの場合は転び勾配にする。茅は真茅か国頭地方に産する竹を用いる。
床は床束、大引、根太、床板を順序よく作り、外壁は2分5厘〜3分板を縦張りにして目板押さえをする、内壁は目板は使わない。
天井は一般的に棹縁天井である。
つまり柱に貫を通すので、「貫木屋」「貫屋」といわれる。これはこの工法以前の掘立小屋「穴屋」(柱穴を掘って柱を埋め建ててできた家)に対照した表現である。

元来沖縄は建築材に乏しく松、椎、伊集以外の良材はすべて移入しなければならないので木造でも建築費はコスト高になっている。
この伝統のあった木造建築は、戦後も自力であるいは、復金住宅として相当量建築されたが、湿害、虫害(白あり等)、台風による振動で屋根漆喰のひび割れによる雨漏り等があり、建築して10年くらいで大修理しなければならない等の欠点が多いのに加えて、復金の鉄筋コンクリート造に対する貸付金額の増加等があり、鉄筋コンクリート造の台風に対する安全性、耐久性と(対暑性は悪い)ひいては経済的であることが一般に認識され、木造建築が敬遠されたようである。

「赤瓦に白シックイ、そして青い空」といわれた沖縄の風物詩は次第に見えなくなりつつある。
これも時代の遷り変わりで止むを得ない事と思うが、建築家として「南国の明るい青い空と赤瓦屋根の夢よもう一度」と叫びたくなる心境は私一人ではないと思う。

せめて今後は構造体を鉄筋コンクリートにして、屋根をあるいは部分的に瓦を使った建物、例えば公共的なもの、あるいは観光につながるもの等、ローカルカラーを少しでも出せば観光立県のスローガンにつながると私はいつも考え続けている。

なお旧王朝時代は首里、那覇の士族および那覇の一般庶民(那覇は開港場で対外的な見地から無制限であった)以外の地方(田舎)では瓦葺きは許可されなかった。
この瓦葺きが一般に解放されたのは1889年(明治22年)2月である。田舎の住宅等で瓦葺きの古いものは、明治23年頃以後のものと推定して差支えない。

以上のような理由から木造住宅は次第に影をひそめ、減少の一途をたどっている。

古い沖縄の面影は八重山石垣市に残っているとよく言われるが、ここも鉄筋コンクリート造住宅が盛んに造られ、あと10年を待たないで、那覇のようにコンクリートの都市になると思う。

5.ブロック造住宅

前述の復金住宅の頃から急速に普及したもので、構造体を鉄筋コンクリート、壁はコンクリートブロック造である。屋根は鉄筋コンクリートスラブの陸屋根にしたものと、本瓦葺きまたは、セメント瓦葺きにしたものと、二通りあり、前者は主に都市地区、後者は田舎に多く見受けられる。
田舎では誰かが一棟見本的な住宅を建てると、その部落は大体において、その建物に準じて建築される例が多い。

また、コンクリート打ちの場合には、昔風に持ち回りで手伝いに近隣縁者の人々が来る場合もあったが、現在は建設業者まかせになっている。
建物は外観的には洋風であるが内部は和風畳敷きが多く、和洋折衷のものも多く種々雑多である。

風呂もほとんど瞬間湯沸器を使い、便所も水洗式になり、台所の流し台等も初めの頃はコンクリート製タイル張りだったのが、数年来からはステンレス製になり、竃(かま)はほとんどがガスコンロに取って代わり、燃料も都市では一部分が都市ガスとなり、プロパンガスが田舎の農家まで普及し、薪はまったく使われなくなった。
電気も最近は僻地まで供給されて、電灯も蛍光灯になり、テレビも普及して、本土復帰後はNHKのマイクロ回線でカラーを受像するようになった。そして電気冷蔵庫等はごくあたり前になった。
建物の開口部のサッシも台風型のアルミ製に変わっている。

最近の住宅建築は、木造、鉄筋コンクリート造、コンクリートブロック造等のどれをみても、その内容は文化住宅で持ち家が多く、木造以外は台風と湿度の高い沖縄に適した建築構造といえる。
ただし最上階の太陽輻射熱の断熱処理にあと一工夫を要するのではないかと思う。

6.鉄筋コンクリート造アパート

沖縄におけるアパートは台風等の事情によってすべてがこの構造で、木造は一棟もないのが特徴であるといえる。
アパートは小規模ながら民間の方が先にできたようである。
1956年1月に那覇市営アパートが若狭町の海岸寄りに3階建で4棟できたのが、公共的なアパートの始めである。

その後那覇市は1964年4月に首里の久場川に第1種公営住宅6棟、108戸、1戸当たり40平方メートルで3階建が竣工。
同年5月には識名に第2種公営住宅90戸、1戸30平方メートルで4階建3棟竣工。
同年6月には小禄宇栄原に、第1種160戸、第2種120戸、4階建が起工された。
入居希望者は戸数の数倍に上り、人口の都市集中が入居難を招いている現状である。

那覇市は東町、安謝、与儀等にも市営アパートを建設しているがいずれも2DKが主体で階数も3、4階である。
1966年9月に琉球土地住宅公社が行政府の住宅政策の一環として発足した。
住宅、宅地の大量供給が目的で、最初のアパートを首里当蔵に9階建を建設し、その後豊見城村に大団地を建設している。
内容は2DK、3DK等で、本土の住宅公団のものと大差はないようである。

1956年1月に那覇市若狭町に完成した市営アパート。公共的なアパートの始め
1979年に完成する高層の若狭市営住宅。手前が1956年につくられた市営住宅の一戸建(現在の若狭公園敷地内)

民間のアパートは都市地区の狭小な敷地に建てられたものが多く、規模は3〜5階建で戸数も少ないものは6戸くらいからあり、平均したら10〜20戸くらいであろうと思う。2DKが主体で3DKは少ないが、最近の需要は3DK、3LDKを要求するようになってきたのは、世の中が落ち着いたためだと思う。

郵便貯金等住宅事業協会では、戦前の郵便貯金を基金にして、住宅供給事業を大々的に進めすでに、松川団地、古島団地の入居が終わり、末吉にも団地を建設しつつある。
コザ市でも美里村でも公営アパートを建設している。
都市地区における住宅供給は、まだ焼け石に水という状態であるといえる。

以上で「戦後の住居の遷り変り」のあらましを我流で書いたが、拙文を御容赦願います。

著:又吉真三沖縄県建築士会会誌「沖縄建築士」(1972年7月発行・復帰記念特集号)より

※建物のデータなどは掲載当時のものをそのまま掲載しています。

又吉真三(またよし しんぞう) 1922年-1996年

1939年沖縄県立工業高等学校建築科を卒業後、関東軍経理部工務科勤務。戦後来沖し、1946年沖縄民政府泡瀬工作隊技術部勤務。1951年日新工務店を設立し、54年に又吉真三一級建築士事務所に改組。1958〜72年、琉球政府文化財専門審議会委員。1960〜68年中城城跡修復工事設計及び監督など実測調査を通して「城」に係る石造建築の研究に尽力した。

 
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