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第6回民俗建築を訪ねて 山里銀造
本号(「沖縄建築士 第4号」1960年11月15日発行)は住宅特集号として、沖縄の住宅事情を広く内外に知らしめ、今後の住宅問題のあり方について各方面からの批判や助言を得て、その対策への糸口ともなれば幸いと思う。

内容に掲載されている一般住宅の近代感覚と、農村住宅設計コンクールに見られる農村住宅の今後のあり方など、戦後10数年の歩みを偲ぶとともに、今後に期待する新しい方法を示唆した主に戦後の作品を主体に盛られているが、我々は一歩振り返って戦前の住宅事情はどうであったか、さらに時代をさかのぼって我々の祖先は住問題をどう考え、またどのような住宅に住んでいたかを考えることもあながち懐古趣味だと片付けられるのであろうか。

なんとなれば、その昔、科学的な文献にとぼしい時代に、いかにして宿命的な台風と戦い、また沖縄の気候風土の諸悪条件を克服してきたかということは、科学の発達した現在でさえ、なお未解決の問題が我々の周辺に数多く転がっているかしれないからである。

沖縄本島 殊に中南部は戦火に災いされて、古い住宅や民家を研究する対象物がないことはお互い建築技術者として実に残念なことであるが、幸いにして沖縄本島北部、本島を囲む島々、宮古、八重山方面にはかなり立派な住宅や民家が数多く残されていることは、今後の民俗建築の研究に志す建築技術者にとっては貴重な資料といえよう。

ここで1952年2月20日、琉球政府文化財保護委員会によって指定された古文化財中住居として指定されている3件について、文化財要覧から転載して祖先の残した文化を偲ぶよすがとなす。

八重山宮良殿内
1.指定
 重要文化財
2.指定年月日
 1956年2月20日
3.所在地
 八重山石垣市字大川178
4.所有者
 宮良当智
5.建造
 文政2(1819)年

宮良殿内は文政2年(1819年)当時の八重山の頭職(カシラショク)をしていた宮良親雲上当演の時代に建造したもので、琉球の貴族の屋敷の構えをやや完全に模した建築である。

琉球の住宅建築は旧藩時代には階級による厳然たる規格があり、八重山の頭(カシラ)がこんな家屋敷を構えるのはまったく僣上(せんじょう)の限りであった。そのため、天保12年(1814年)、安政4年(1857年)、2回にわたって首里政庁から取り壊しを命じられたが肯せず、ついに明治7年(1874年)御検使富川親方の譴責(けんせき)にあい、草葺きに改められた。

その後、廃藩後現在の瓦葺きにかえったのであるが、屋敷の構えは、周囲は石垣で囲い、東南面に表門を設け、赤瓦本葺きの四脚門(屋門)があり、門を入ると前庭となり、その正面には瓦石垣が続き、中ほどに仏間に通ずる中門を設けてある。

前庭を右折して進めば玄関があり、さらに右折すれば庭園がある。前庭を左折すれば台所、中前があるのは琉球の住宅建築の定石通りである。

建物は木造平屋建て、屋根は赤瓦本葺き漆喰塗り、材はすべて槙材を使用し、柱は大面取り、建物周囲には雨端(土庇)を設け、雨端柱は根材の振付丸太を使用してある。

全体の構えは、琉球の貴族屋敷を彷彿するもので四脚門(屋門)瓦石垣など、沖縄本島内にはことごとく潰滅した今日、戦禍を免れよく保存された唯一のものである。
なお、付属せる庭園は石灰岩の巨石を多く配した琉球庭園の特徴を遺憾なく発揮した造りで、城間親雲上の造園になるものといわれている。

屋敷内北西には、畜舎の跡があり、門を入った東南隅に、石垣で囲った雪隠が設けられているのは琉球の士族屋敷の規格どおりである。

 

全 景
雨端軒組
玄関をのぞむ
 

 

久米島石垣殿内
1.指 定 重要文化財 2.指定年月日 1956年2月20日
3.所在地 久米島具志川村字西銘 4.所有者 上江洲智元
5.創 建 不詳


石垣殿内(上江洲家)は代々地頭職にあって、3世智隆は宗味入道来島の年(天正7年、1579年)桑の栽培、綿糸の製法を普及し、4世智囿妻、君南風(チンベエ)は薩摩の人友寄親雲上から紬の製法を伝授して一般に広めた。

寛永9年(1632年)、7世智英は凶作の年に貧民のため無利子で米を貸与し、麦種子を配布し窮民を救助し、国家有時の年には多額の物資を献納し、功労により尚敬王から「世済其美」の掛床を拝領した。

現在の建物は6世智意(1626年)の時代に建築したと伝えられているが、新築当時は母屋と下屋(トーングヮ)が隣接していた。
その後雨端が瓦葺きとなり、1891年下屋改築するに至り母屋と下屋を接続し瓦葺きに改められた。現在の母屋は当初の建築である。

屋敷の周囲は石垣で囲い、その内側は福木の老樹にて囲まれ、屋敷の坪数は615坪、屋敷の構えは旧藩時代の形式をよく保存し、即ち表門を入れば前庭があり、石垣のヒンプンには中門を穿ち、右折して「つげ」の生垣の間を通って母屋の客間に至る。

脇門を入れば下屋に通じ、左折すれば中前に至る。建物は木造平屋建て瓦葺であるが茅葺きから雨端瓦葺、総体瓦葺きとなり、よくその変遷を伝え、この形式の葺き方は久米島の天后宮と同家のみである。なお南西隅には高倉があった。

 

東南より
軒の構成
表門より中門、母屋をのぞむ
民家 中村家
1.指 定 重要文化財  
母 屋 木造平屋建本瓦葺  52,884坪
あさぎ 木造平屋建本瓦葺  18,817坪
前の屋 木造中2階建本瓦葺  19,667坪
高 倉 木造高倉造り本瓦葺  5,778坪
豚 舎 石造屋根アーチ3基
周囲石垣、ひんぷん含む      屋敷坪数  472.00坪
2.指定年月日 1956年2月20日  
3.所在地 北中城村字大城106番地 4.所有者 中村栄俊
 


中村家は元祖比嘉親雲上この地に屋敷を造成、建築の年代は詳らかではないが、3代前後(1700年代)に建築されたものと推定され、始めは竹茅葺きであったが母屋は7代前後(1860年代)に瓦葺に改め「あさぎ」は同年代瓦葺に改められたという。

中村家は俗に大城安里と称し中部地区の豪農で、現存の建物及び屋敷構えはよく保存されている。

屋敷の構えは南傾斜の地を穿ち南開せしめ、周囲は石垣にて囲い南面には福木林を造成し台風に備え、南面石垣囲のやや中央に正門を設け、正門を入って正門を入って正面に石造の「ひんぷん」を設け前庭となし、右折して中門に入り上座に通じ、左折して台所(とぅんぐゎ)に至る。

母屋は中央北奥に西面して建ち、一番座、二番座、三番座が表に並び、三番座の前には中前の板間を設け、裏には各々裏座を取り、「とぅんぐゎ」は板の間、納戸、台所の土間、物置などからなり、母屋を廊下でつなぎ、西南側に中二階建ての「前の屋」が東面して建ち、一階は牛の屋、馬の屋、山羊小屋などを取り、中ニ階は薪置き場となって屋根は母屋と列なっている。

北面隅には石造豚舎「ふうる」3基を設け、「あさぎ」と「前の屋」の中間、母屋の中前に高倉「むみぐら」が建ち、「むみぐら」と「あさぎ」との間を中庭となし、上座と普段の生活の場とうまく区切っている。

材料はすべて槙、イーク「モッコク」材を使用し、雨端を設け、屋根は各建物とも本瓦葺き漆喰塗りとなし、台所前面雨端などは石畳となって、南面石垣囲内の約200年前後と推定される福木の老樹がウッソウとし、屋敷外の敷地に前面道路を隔て、用水池を設け、沖縄民家の代表的な規模結構を備えている。

 

南面石垣と福木の老樹
屋根の構成
高倉(もみぐら)
 

 

著:山里銀造 沖縄県建築士会会誌「沖縄建築士」(1960年11月15日発行・第4号)より

※建物のデータなどは掲載当時のものをそのまま掲載しています。

 

山里銀造(やまざと ぎんぞう) 1919年-1994年

1919年久米島具志川村に生まれる。沖縄県経済部土木課営繕係勤務などを経て、1950年に大城重信氏、西平守徳氏らとともに設計事務所ライト工務店を設立。戦後の復興期、2×4工法の木造住宅が壊滅的な被害を被っている状況がライト工務店設立のきっかけだった。それまでの木造主流の建物からブロック造、コンクリート造へと沖縄建築の技術革新に力を注いだ。昭和30年代後半、琉球政府の文化財保護委員をしていたころから、県内にある城跡の実測を始める。以来、建築文化財の復元工事に従事するようになる。円覚寺総門、弁財天堂、座喜味城跡、中村家、玉陵、識名園、首里城跡など、戦後の文化財復元に携わった。
首里城正殿の復元については、首里城復元期成会の結成からかかわり、昭和60年の首里城正殿の基礎発掘調査を始めとして、平成4年11月の首里城正殿の落成まで寄与した。

昭和53年4月より沖縄国際大学南島文化研究所特別研究員として活動。昭和56年には同研究所地域研究シリーズ2号沖永良部島調査報告書(昭和56年3月発行)に「沖縄及び奄美地方の高倉建築」と題して論文を発表。

1963年金秀鉄工株式会社取締役企画室長・工場長就任。1969年新世住宅株式会社(後の金秀建設株式会社)設立。
金秀鉄工(株)取締役就任後間もなく、日本本土では各地でプレハブ住宅建設が軌道に乗り企業化されていたころ、沖縄でも鋼鉄系プレハブ住宅を企画すべく、東京や大阪方面の有名企業を訪れる。しかし、沖縄の気候風土に適するものがないことを知り、沖縄的プレハブ住宅を研究。当時としては珍しいH型鋼を主要構造材として断熱材には木毛セメント板等を採用したプレハブ住宅を開発した。

 
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