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第5回転々する住い 仲座久雄
10月の空襲で二中前の家が焼かれ、首里、末吉、扁照寺の「いわや」洞窟に避難したその後、家族は郷里中城の実家で父と弟家族の同居生活が始まり、私は戦争中八重山で病死した義兄、新垣信一氏宅首里末吉から役所へ通っていた。

焼け野原と化した那覇市の都市計画が内務省から派遣された技師たちによって進められ植田技師と2人はボツボツ建ちつつあったバラック建築を都市計画の線に沿って指導していた。
当時、山田真山先生に協力して土の家の設計をしていたので、焼け残った牧志の先生の家にご家族と共に雑居生活をすることになった。
土の家の考案は山原竹とワラを主材にしたアーチ型の建築でカマボコ型をしていた。終戦後カマボコ型のコンセットを見て、先生の慧眼に敬服したものである。この建築は食糧営団の倉庫に実施することになり、基礎工事に着手していた。

いよいよ戦争は不利になり沖縄上陸必至ということで、島尻中頭の住民を国頭郡各部落に疎開さすべく、2間3間カヤ葺の避難小屋が計画され、山奥の川沿いに建てることになり、植田技師と2人はその指導のため名護勤務となった。3月に入って疎開小屋も順調に進み、疎開民も各部落へ割り当てられ避難小屋生活が始められたのである。

3月23日からの空襲で、名護の町も毎日次々と家が焼かれ復々「いわや」生活が始まったのである。最早仕事もできず4月6日に解散することになり、その夜私は久志村嘉陽に疎開している家族の所に避難することにしたが、嘉陽に行くまでの部落の家々は焼かれ人影もなく、今日の空襲で焼かれたであろう、焼け跡の匂いとともに、ほのおがちらちらしていた。
嘉陽部落に着いて、家族が区長家族と共に山に避難したことを知った。翌日区長オナガ松次氏の厚意で床板と雨戸を借り受け「そうずまた」という所に避難小屋建築が始められた。

その処は谷川になっていて、この川が道である。谷川沿いの区長の小屋と数間離れた場所に雑木を切り拓いて妻と二人で地ならしから建て方まで共同の作業で造ることができた。その間5才になる長男と3才になる三女は吾々の助手であった。
嘉陽そうず又の住まい
この小屋は4畳敷きくらいの大きさで、周囲の壁は山原竹と雑木の小枝である。もちろん窓は無く片側のつまに入口があるのみである。
屋根は雨戸を利用したのであるが、雨戸打ち付けのとき区長に注意された。建築を専門の業とする私も、そこまでは気が付かなかった。それは、雨戸の戸板側を下にすることで雨漏りが絶対しない。その反対に戸板側を上にすると、横サンを伝って雨漏りがするのである。そのことは後々の笑い話になった。
カマドは3個の玉石をならべ、入口はカマスをぶらさげ、入口前面には子供の遊場を作り、腰掛なども丸太で作られた。谷川から入口へ上る階段はこの谷川にころがっている美しい玉石で築かれ、区長の厚意で畳2畳が敷かれた。
戦争に追われている私達にとって、このささやかな小屋が安らかな住いであった。
うえなん川の住まい

5月に入ってこの地も米軍の通過する所となり、私たちは久志村、「なこう山、うへなん川」という所に避難することになった。
この処は嘉陽部落より一里余離れた山奥の渓流である。古成岩が並立していてその所が滝になり、滝壺には冷水が満々としていて、岩の間を「あこう鳥」がさえずりながらチョロチョロ飛び回っていた。

区長家族の他、4、5軒の部落民が下流に小屋を作ることになり、私たちは上流の滝の近くに作ることにした。
ちょうどふもとに雑木が2本並んで立っていて、この樹を利用して小屋掛けをすることに決め私は木を切り、妻は木を運び、山かずらを集め、私が骨組みをする間妻は竹カヤを苅りたのである。

屋根葺は区長の家族に手伝ってもらい、床と壁は山かずらで山原竹を編み、壁は竹カヤで囲われた。
小屋の片隅には丸太の炉縁を作り、三個の玉石でカマドができ、その上に丸太組のタナが作られ、床はワラが敷き詰められた。
この小屋は樹木を利用した。高床式の破風造り、妻入口の住いである。入口にはカマスがさげられ、谷川から一丈余も高い所ににあるので、斜め公園などで見受けられるような丸太の上り階段を作った。

その頃、髪やひげは伸び放だいだし、同郷の婦人から恵まれた継しま筒袖の女着を着てワラの帯を締めていた。妻はよれよれのモンペを着ていて、小屋作りにはターザンの映画を思い出したし、生活は神話的な原始的時代を思い浮かべたのである。


この男ゴリラは、昼は生きるためにジャングルを歩き、敵のすきを見ては母親と子供のために部落へおり、食糧を運んだものである。
深夜フクローの鳴き声や、あほう鳥の僧侶の読経に似た鳴き声に夢破れ、滝水の落ちる音と、谷川を流れる、せせらぎのリズミカルな声に今日一日何事も無かったことを森とした渓谷の底で腸うたたるのであった。

この住いも三週間で捨てなければならなかった。本部半島守備隊の宇渡部隊が破れ、敗残の兵がこの渓谷に現れたからである。

二人の子供はハシカにかかり父母ゴリラは憂慮していたが、元の“そうずまた”の古巣へ帰ることにした。母親は下の子供を背負い、父ゴリラは上の子の手を取り、二人とも持てるだけの荷物を持っていた。

いよいよ食糧が心配になり、私はソテツを切り、妻は皮をむき、月夜を利用してデンプンを作った。これが親子4人の食糧である。その頃、営林署長の雨宮四郎氏が数間離れた区長の小屋にマラリヤでふしていたが、山小屋生活の不摂生と医療不十分のため6月30日不帰の客となった。

この部落にも米兵の探察隊が毎日海岸へ来て発砲することになり、私達は最後の安住の住いを求めて、二里余離れた「比嘉川」という処の山奥に小屋を建てることになった。

小屋が完成に近い頃には、事態は急変し、米軍の討伐隊が三原に陣を布き、嘉陽周辺の山々に迫撃砲弾を射込まれるようになった。
三原部落や福地又の部落民は、すでに捕虜になり、明日は安部の部落民が捕虜になるという。
その夜、翁長区長は字の有志疎開民代表を加え、部落会を催し、山から降りることを決め、その代表が三原の米軍陣地へ送られることになった。
白旗を先頭に7月6日部落有志数名と疎開民代表として、現農連会長山城栄徳氏と私も加わり三原の陣地へ行ったのである。
7月7日瀬嵩へ収容されることが決まり、完成に近かった「比嘉川」の最後の小屋も用をなさなくなったのである。

瀬嵩の住まい

収容された瀬嵩部落は、避難民でごったがえしていて、焼け残った民家に軒まであふれ、神社の森や、樹の陰に枯れ草やゴザを敷き、家族々々が荷物などで仕切って室をなしていた。

水字は思い思いに石ころでカマドを造り、枯れ草や枯れ枝で炊いていた。ナベ釜や、食器なども缶詰の空き缶を使用しているのが多かった。

私たちもこの青天井の室に2週間ほど暮らしていたが、部落民50余名に、テント2張が割り当てられ、雨露をしのぐ住が出来て生きた心地がしたのである。

テントが引き上げられることになり、各自小屋を建てなければならなくなった私達も、雑木林の中に小屋を建てることになり、私は一里余の山奥から毎日丸太を切り出し、妻は竹カヤを苅りたのである。

この小屋は最も原始的な天地権現の宮造りの造り方を用いたのであるが、平面は矩形にせず、楕円形にし中央に矩形の部屋を取り、部屋の両面には横長の小さい窓を設けた。
両妻の円形の中央に玄関と勝手口の入口を取り、玄関入口の両側の4分の1円の所が物置になり、勝手口入口の片隅の4分の1円の所にカマドを作り、片方が薪置き場になっていた。
床は土間で枯れ草の上にゴザ敷きであったが、屋根は楕円形にふき上げられ、玄関には鉄平石が敷かれた。

その頃からは心にゆとりもでき、よりよき住いをと思っていたので、避難小屋としては風変わりな住いができたのである。

諮詢会ができ、又吉康和先生が、この小屋を訪問され、私達を見舞って下された。先生方が健在であられたことが、嬉しかった。
この小屋は2年前まで誰かしらん、住人が居た。弟の呼寄で、石川市に移動することになり、この小屋も1月も住まずして別れることになった。

9月2日石川市に移動したものの焼け残った民家や、市で建ったテント小屋は、罹災民であふれ、テント切れや、紙箱でできた小さい小屋が、至る所密集していた。

私達に割り当てられる部屋はなかった。翌日から住いの建設である。

工務課から古い木材とテントをもらい、弟と古い顔馴染みの大工3人で小屋を建てることにした。

桁行、はり間共2間で4坪の家である。家の間取りは、部屋を2等分し、片方の1間2間の床を1尺3寸高くし、この所をベッド兼腰掛にし低い床の奥に、1間に4尺の台所を取り、残り1間8尺が居間兼食事室である。
台所にはカマドと流しが取り付けられ、立って作業ができるようにした。食事室と台所との仕切りには差し出し口を設け、その上部にはレーションの箱を取り付け、食器棚にした。屋根と壁はテント張りである。

この家は古材ではあるが中頭地方の民家を壊して集めたという木材で、柱は槙の角材であった。
家作りで、ありがたい釘が終戦後初めて私の小屋作りにつかわれたのである。

松岡政保氏の紹介で海軍々政府工務部に勤務することになり、帰途ダンプからジープのイス5個を持ち帰り、毎日曜日箱板を利用して2個のひじ掛けイスと3個組み合わせのソファを作って居間の家具とした。
木と鉄の組み合わせである。現在も使用している。

焦土と化した住民の生活も衣食は米軍の温かい救助によって幸福な日々を送っていたが、住生活は惨憺たるものであった。焼け残った民家や、テント張りや急造の草葺き小屋が各地区で建てられたのであるが、一棟の小屋に数家族も収容せざるを得なかった。

軍政府においては早急に民住宅の建設が計画され、大量生産による6坪3合3勺の標準家屋が建設されたのである。

当時私はこの標準家屋の設計を担当していて1945年11月30日設計を完成し、その設計図面が各地区に送られたのである。
その後、直接指導することになり、金武製材所、胡差工務課、具志川製材等々次々と建設し、具志川製材所では日産50余棟の標準家屋が組み立てられ、石川地区、前原地区、胡差地区へ割り当て配給されたのである。

この建設指導は二世のジョウジ兼茂氏、元県庁土木技師植田良勝氏と私の3人で24時間作業であった。

石川市の住いも、沖縄薬品営繕課に転ずることになり8カ月の住いであった。


住民に配給された標準家屋
具志川村宮里に在った薬品営繕部の私達の住いは戦災を免れた瓦葺の農家であった。

この家は私の本家の次男の家で、子供時代に見覚えのある家である。
一番座、二番座、三番座台所の土間と裏座があって、南側と西側の二方に縁を回し、雨端も付いていて、沖縄農家の基本的な間取りにはなっていた。
屋敷の周囲は樹木がおい繁って、前面は広い耕地になっていた。私達は一番座と、床裏の裏座に住み、その他は当時部長の大宜味達氏の住いであった。

重厚なこの瓦葺の落ち着いた農家の住いは、戦争に追われ、仮小屋生活を繰り返していた私達にとって住いの有難さをしみじみと味わったものである。

戦禍にあって灰燼に帰した多くの家、仮小屋生活を余儀なくさせられている住民の住生活を思えば、今さらながら戦災のみじめさを身にしみて感ずるのであった。

胡差中央病院も完成し、宮里の病院は胡差に移転した。テント張りであった。
仮病院は取り壊され、その古材は愛楽園へ送られた。営繕課も解消することになり、私は郷里中城津覇に移動することになった。

津覇部落は戦前200余戸の大部落で4部落が移住していた。私の屋敷も先着の住民が2軒小屋を建てていて、私達は叔母の屋敷に住いを建てることになった。
隊長の厚意で残材の古材が使われ、壁体には、窓、出入り口、建具等も取り付けられ、壁板も取り付けられた11個のパネルからなる組み立て式の家で、屋根はトタン葺きである。パネルと小屋の合掌は大工1人で1週間で出来上がり、トラック3台で津覇に運ばれ、地ならしから建て方、屋根葺き、床張り、戸締りまで3日間で出来上がった。

桁行4間半、梁間2間半の大きさである。部屋が3つに仕切られ、中央の間口1間半奥行き2間半の部屋が居間兼食事室で家族共同の中心の部屋になり、両側が子供室と夫婦の寝室がとられ、居間兼食事室の奥が台所、食品庫、便所になっていた。

この種の小住宅は無駄がありがちであるが、廊下や、押入れも一切取らず、各自の寝台の下が押入れになっていて、何等装飾もなく簡素な間取りで住という生活内容であるだけであった台所家具や、居間、食事家具、寝台等設計製作とも自作である。真和志村栄町に建築設計事務所を開設することになり、この住いも1年余の住いであった。

現在の住いは1949年12月に完成した2階建ての木造である。

1階が15坪の住いで2階が9坪の事務所である。
新しい構造システムを用いた木造建築の構造に対する試作である。

屋根は片流れで防水層の上にセメントモルタル仕上げであり、2階に上る階段は、天井から続いている手すりで段板の周端をつづいていて、暗くなりがちな階段が明るく、簡単な工法で成功している。

栄町の住まい

戦塵ここに収まり、歳月は流れ早くも九星霜、人類の第一項に押し戻された人々は生活の如何なるやを身を持って経験されたであろう。

換言すれば、衣、食、住の三大要素が伝い古されているが、衣はどうにかなるにしても、とりわけ不可欠なるは食であり、住が食に次いで重要であることを痛感せられたであろう。

三度の食は毎々かえることができ、衣は毎日替えることもできる。
住は一生一代の住いである。
人間の健康と幸福は生活の根拠である住いであろう。

       「一個のオノで人間を殺すことができるように
                  一個の不良住宅は人間を殺すことができる」     ハインリッヒ・ツレー

著:仲座久雄 沖縄県建築士会会誌「沖縄建築士」(1957年12月1日発行・創刊号)より

 

仲座久雄(なかざ ひさお) 1904年-1962年

1904年 中城村津覇に生まれる。大阪で働きながら苦学をして建築を修めた。勤務・勉学しながら建築家・賀川豊彦氏の弟子となり薫陶を受ける。33年に沖縄に戻り、学校建築や災害復旧工事などに従事。戦中は島尻・中頭の住民を国頭郡に疎開させるための避難小屋の建設指導を行う。
終戦後、標準家屋や規格住宅の設計・建設指導を行い、廃墟と化した沖縄の住居復興、病院施設の復興を手がける。
55年「沖縄建築士会」を設立し、初代会長に。62年に病に倒れるまで会長として尽力。
建築展、住宅展、本土研修や建築技術講習会、講演会、コンペなど多岐に渡って場を設け、沖縄建築の発展と、技術者が連帯して協力・努力していく素地を築いた。
戦前から琉球建築の特異性に着目し、守礼門修復に関わる。戦災を受けわずかな原型を留める文化財の修理、復元に精力的に取り組む。深い伝統に裏打ちされた建築様式は、その後の建築に影響を与え続けてきた。

<手がけた仕事 抄>
沖縄キリスト那覇中央教会、首里博物館(1952)、那覇高校城岳会館(1954)、琉球大学志喜屋記念会館(1955)、那覇市営識名納骨堂(1957)、沖縄バプテスト教会堂(1957)、波之上護国神社及び本殿  など

 
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