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第3回 備瀬を訪ねて ーヒンプン建築論ー 第3回 備瀬を訪ねて ーヒンプン建築論ー
 備瀬は福木の村である。屋敷という屋敷はみな福木の大木で囲まれ、東西南北には小路(スージ)が走り、南北をつらぬく大通りに平行して、その両側にも小路がのび、この三本の南北の通りに、東西の小路が交差して碁盤の目を形成しているのである。

 備瀬の部落は中央の大通りにそって南北に伸び、南からしばらく行くと、そこが村の公民館前の広場(アシビナー)になっていて、雑貨店もある。

 福木の向こう側から人の話し声が聞こえて来るときもあるが、備瀬はどこまでも福木の村である。家々のまわりに福木を植えたというよりも、福木林の中に村づくりをしたと言った方が適切かもしれない。
第3回 備瀬を訪ねて ーヒンプン建築論ー
 備瀬部落は如何にして村づくりをしたかは知るよしもないのだが、その地理的条件から見て、備瀬は本部半島の最先端に位置し、東、西、北の三方からまともに潮風を受ける地にある。それから推しても、この地に部落づくりをした人々の労苦は、われわれの想像を絶するものがあったであろう。たびかさなる自然の暴威は人々に、樹を植えることの、いかに死活の問題たるかを、教えずにはおかなかったはずである。初めてこの地に、福木を植えた人々はその生育を朝な夕な祈るような気持ちで見守ったことであろう。そして実際に、この福木の恩恵に浴した人々は、おそらく何代か後の世代の人たちであっただろう。事実、福木は非常に成長の遅い木といわれる。備瀬の福木も植えられてから何百年もの歳月が経過しているのかもしれないのである。福木は黙して何も語ってはくれない。ただ海から吹いてくる風をサラサラと受け流し、ギラギラと照りつける真夏の太陽をはねかえしているだけである。
第3回 備瀬を訪ねて ーヒンプン建築論ー
 備瀬の民家もまた沖縄民家の典型を示していた。門を入るとヒンプンであり、左に折れて進むとトングヮ(台所)とウフヤア(母屋)である。ウフヤアとヒンプンとの間が広間ナー(庭)である。ウフヤアから離れて左側前方にアシャギ(メーヌヤー)、右側前方にウマヌヤーがあったりした。

 沖縄の民家は門を入れば前方にヒンプンがあるだけである。鍵のかかる扉があるのでもない。ただヒンプンだけがあるのだ。ヒンプンはプライバシーを守るための単なる目隠し塀ではない。ある人は中国語の屏風(ピンフォン)からきたという。あるいはそうかもしれない。伊勢神宮にもヒンプンを思わせるものがあるが、門とヒンプン、仏壇の線が南北の一直線上に並ぶ、その中国的な軸線の原理に注目する必要があろう。

  沖縄の民家は門からヒンプン、ヒンプンから建物へと至る、その導入の部分にいろいろと創意工夫をこらしてきた。それはある点で沖縄の舞踊と似ている。沖縄の舞踊の面白さはその舞台への導入部分にあるといわれる。舞台斜めに登場してきて踊り、踊りおわってまた余韻を残しながら舞台を斜めに引き上げてゆくところに無限の味わいがあるというのである。沖縄の民家の面白さも、門からヒンプンをまわりながら建物へと至る、その導入の空間処理にあるのではなかろうか。ある期待感を胸にいだきつつ門をくぐり、ヒンプンをまわるときの気持ちは、静寂な露地を歩む茶人の心境とも相通ずるものがあろう。その空間の処理ひとつで、人を威圧するようなアプローチともなれば人を誘い込むような軽快な導入部分ともなるのである。

 視点をかえて、備瀬部落そのものを一つの屋敷と見れば、福木の小路(スージ)はさしずめ導入部分(アプローチ)ということになる。アプローチは長ければ長いほど人々に期待感と高潮感をもたらす。さらにそれが左に折れたり、高低や広狭にも変化が加われば、空間はおのずから高潮するのである。備瀬のスージにはまさにそのような空間構成の妙味がある。
第3回 備瀬を訪ねて ーヒンプン建築論ー
第3回 備瀬を訪ねて ーヒンプン建築論ー
 なかでも印象的なのが部落の奥深く入ったところにある高良家の東側のスージ(小路)であった。あの掃き清められたスージに思わず足をすくめない人があろうか。だれしもそこに霊的な何ものかを感ずるはずである。福木やその他の雑木におおわれたうす暗いスージのまん中に、2、3個の石がたてかけられただけである。それは竜安寺の石庭の如き観賞用の対象物ではない。それとは次元を異にする。石敢当のようでもあれば、そうでもなく、何かの拝所みたいな、独特の雰囲気を漂わせているのである。

 そしてこの別世界の向こう側にはまた夏の太陽がギラギラと照りつける通りがある。闇の世界と眩い世界とがそこにコントラストする。沖縄の昼と夜、光と影の世界がそこにも見られるのである。

 光と影の世界はそのまま大通りと小路(スージ)とのコントラストでもある。スージが福木におおわれた陰のプライベートな空間なら、大通りは太陽がさんさんと照りつけるパブリック空間なのである。このパブリックな空間がそのまま部落の中心たる公民館前の広場(アシビナー)に通ずる。アシビナーは文字通りアシビ(遊び)のナー(庭)である。村の祭りやその他いっさいの行事はこのコミュニティ・センターにおいてとりおこなわれてきた。小路(スージ)におけるプライベートな空間が、そのままこのパブリックな空間に反映されてきた。たとえて言えば、アシビナーは団欒を楽しむ居間のようなものである。村の人たちはここでのコミュニケーションを通して部落共同体の意識をつちかってきたのである。アシビナーはお互いの情報交換の場であり、また親睦の場であった。外部から入ってくるものは、良きにつけ悪しきにつけ、このクッションによって受けとめられて来たのである。

 このように備瀬の人たちは外界の荒波をこのヒンプンによって受けとめてきた。それは村人たちの共同体が生んだ生活の知恵であった。そして今また備瀬部落は有史以来の怒涛ともいうべき海洋博をむかえようとしている。

 海洋博をまえにして村人たちはまたアシビナーに集まってヒンプンの知恵を生かさんとしている。だが海洋博は津波の如き勢いで備瀬部落そのものを洗い流さんとしている。いま備瀬は、地上から葬り去られるか、生き残るかの瀬戸際にあって、新たなる決意をせまられているのである。
 備瀬部落について今までくだくだしく述べてきたのも、備瀬の文化史的価値を高く評価するからであり、その積極的保護保存に協力せんがためである。

 備瀬部落の保存策として最も重要な点は、備瀬の人たち自身に、備瀬部落そのものの文化史的価値を認識してもらうことであり、もう一つは海洋博の開催時とその語の、観光地化にともなう激変を防ぐための、新たなクッションとして海洋博会場と備瀬部落との中間点に、公園緑地帯と設置することの二点である。

 とにもかくにも備瀬のあの福木のスージ(小路)だけは失いたくないものである。福木がなくなれば、影の世界がなくなる。そこにはただ真夏の太陽のギラギラと照りつける眩い光の世界があるだけである。
 そのときわれわれは心のヒンプンを失うことになるのである。
第3回 備瀬を訪ねて ーヒンプン建築論ー
 
著:親泊元高 沖縄県建築士会会誌「沖縄建築士」(1972年7月発行・復帰記念特集号)より
 
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